仕事の事典  》 第14章 社会  》 この仕事で生きていこうと決める
 
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社会‐1401c この仕事で生きていこうと決める BACK

自分はこの仕事で生きていこう。あるときそう閃めいて、困難を乗り越えてそれを極めた。そんな事例を紹介します。

 このページの掲載事例→                       ●1401c01 ファッションの魅力を追求しようと決める 
 ●1401c02 空飛ぶ夢に生涯をかける
 ●1401c03 花文化を創造する  
 ●1401c04 経営者には果たすべき使命がある 
 ●1401c05 「ありがとう」と言ってもらえる
農産物販売をめざす
  
 ●1401c06 飲食業の近代化に力を尽くす  
 ●1401c07 お腹を空かせた人々のために
チキンラーメンを開発する
 
 ●1401c08 国のため社会のために織機の開発に生涯を捧げる 
 ●1401c09 石炭で宇部のまちを発展させると誓う
 ●1401c10 千両分限者になろうと江戸に出て両替商をめざす
 
【1401c01】 ファッションの魅力を追求しようと決める  


■クロスカンパニー社長の石川康晴さんは、中学生のころからファッションが好きで、ファッションビルに通い詰めた。「そんなに好きだったら、自分で洋服屋をやればいいのに…」アパレル店の店員からそう言われ、「そうか。自分はそのために生まれてきたのだ」と思うようになり、以来、自分の店を持つことを目標にしてきたといいます。

■社会人となって紳士服販売会社に入り、昼も夜もなく働いて売上に貢献した。3年後に、上司から「店長にならないか」と言われたことがきっかけで、会社を辞め、岡山市内のビルで4坪の店を開いた。

■立地の悪い小さな店だったが、身の丈に合った堅実な商いをこころがけた。わざわざ足を運んでくれたお客様に、商品の付加価値だけでなく、店のイメージ、接客する自分自身の価値を感じてもらえるような接客を心がけた。

■ヨーロッパを歩き回って、自分で吟味した商品を仕入れ、この商品はフランスのデザイナーの作品で、その人はこんな経歴を持ち、こんな作品を作る人で、こんな素材が使われていて、こんな特徴があり、どんなものと組み合わせるとよいか…など、自分なりの知識とファッション観、ひとつひとつの商品への思い入れを熱く語った。

■それが顧客の心をとらえ、売上は順調に伸びて、やがて自分1人では手が回らなくなり、人を雇い入れ、社会保険に加入するために個人事業を会社組織に改めた。

取材先 クロスカンパニー
取材 2008/04/30
掲載 ポジティブ2008/0
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki066.html

 
クロスカンパニーの店舗
 
【1401c02】空飛ぶ夢に生涯をかける   


■愛媛県八幡浜市の住人、二宮忠八翁(1866-1936)は、空を飛ぶものが好きで、様々な凧を自作した。軍隊に入隊して演習で弁当をとっているとき、カラスが滑空するのを見て、ゴム動力の「カラス型飛行機」をつくった。さらに玉虫が内羽根で飛ぶ方向を変えているのをみて「玉虫型飛行機」を作った。

■この原理を応用して軍用飛行機を製作すれば敵地の偵察に利用できると、軍に何度も上申したが、提案はことごとく却下された。

■除隊後製薬会社に入社。やがて経営責任者となったが、勤めの傍らで、玉虫型飛行機の飛行実験を計画した。

■しかし、1903年、アメリカのライト兄弟が自作の飛行機で空を飛んだというニュースを知った。忠八は失意のあまり自作の飛行機をすべて壊してしまった。

■ライト兄弟よりも前にゴム動力で飛行機を飛ばした日本人がいた…という話はやがて軍の知るところとなり、軍は忠八の上申を却下した不明を詫びた。その後、この話は国定教科書に掲載されて国威発揚の一端を担った。

■忠八の自宅跡の京都府八幡市には、いま、空の安全を守る神として「飛行神社」が建っている。

取材先 飛行神社
取材 2017/08/09
掲載 リーダーシップ2017/09
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki195.html

  


玉虫型飛行機(上)と飛行神社 
 
【1401c03】花文化を創造する    


■ジャパンフラワーコーポレーションを立ち上げた松村吉彰さんは、幼児期に交通事故で生死の境をさまよった。水も飲めないほどの重体だったが、このとき乳飲み子だった弟がいて、母親が乳を松村さんに含ませると、はじめてゴクンと飲んで、奇跡的に命を長らえた。母と弟がいなかったらこの命はなかった。この命を何に使うべきか、こどもの頃からずっと考えたという。

■青果商の丁稚奉公を経て、自分で花屋を始めたが、あるとき、せっかく雇い入れた従業員が次々辞めていった。そのことに打ちひしがれ、自信を失いかけていた時、妻の活けてくれた花を見て思った。 

■彼らが辞めていったのは、自分が彼等の心を見ず、「手段」と見ていたからだ。花を見ていると心が癒され、自分の身勝手さに気づかされる、そんな気持ちを多くの人たちに広げることこそ自分の仕事ではないか。

■以来、「花文化創造企業をめざす」という理念を掲げ、自分から同業の先輩たちに教えを請い、その人たちの体験から多くを学んだ。

■胡蝶蘭生産拠点のグループ化、ベトナムの花の生産基地開拓、フラワースクールの開講などを経て、同社は国内有数の花卉販売会社に成長している。

取材先 ジャパンフラワーコーポレーション
取材 2012/12/03
掲載 リーダーシップ2013/01
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki140.html

 


「花まつ」の店舗(上)と
ベトナムの花生産基地
 
 【1401c04】経営者には果たすべき使命がある  


■ファミリーイナダは、エステサロン、痩身教室、ウエイトトレーニング製品製造販売など、多角化を推進していて、売上に占めるマッサージチェアの割合は20%にすぎなかった。

■あるとき、稲田二千武(にちむ)社長が師と仰ぐ稲森和夫氏から、「経営者には、社会に対して果たすべき役割がある」という言葉を聞き、儲かるなら何でもやって会社を大きくするだけが、果たして正しいことなのか、自分の使命はマッサージチェアの可能性を極め、世のため人のために尽くすことではないかと思い直した。

■そして、多角化事業をすべて売却。改めてマッサージチェアの可能性を追求。この日本の文化を世界に広げ、世界の人々の健康に貢献することに全エネルギーを注いだ。

■近年は、予防医学の考え方を取り入れ、脳波・歩数・距離・カロリー・睡眠状態を計測するアクティブメジャーと組み合わせたマッサージチェアによる健康管理システムの開発に力を注いでいる。

取材先 ファミリーイナダ
取材 2017/11/27
掲載 リーダーシップ2018/01
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki199.html

 
 


初期のマッサージチェア(上)と
最近のマッサージチェア 
 
【1401c05】 「ありがとう」と言ってもらえる
農産物販売をめざす
 
 

■「ありがとう」という言葉は顧客満足の証である。しかし、及川智正さんが自分の育てた野菜を農協に出荷しても、伝票が渡されるだけで「ありがとう」の言葉はなかった。

■そこで、農協を通さずに直接スーパーに持ち込むと、収穫したばかりの新鮮さが評価され、多くのお客さんが買ってくれ、「ありがとう」と言って貰えることを知った。

■その後、自ら八百屋を開店して野菜の販売を経験し、次に生産と販売の双方をコーディネートすることをめざして農業総合研究所を立ち上げて「農家の直売所」の看板を掲げた。

中古の軽バンを手に入れて農家からミカンを仕入れ、それを百貨店や高級スーパーに持ち込んで委託販売する。これが軌道にのり、現在この事業に参加登録している農家は7000人。「農家の直売所」
を設置するスーパーは全国に1000店舗に上っている。

取材先 農業総合研究所
取材 2017/10/02
掲載 リーダーシップ2017/12
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki198.html
 


 


農家の直売所の売り場(上)と集荷場 

 
【1401c06】 飲食業の近代化に力を尽くす     


■がんこフードサービスの創業者の小嶋淳司会長は、15歳の時、商売を一生の仕事にしようと決めた。大学に入って、起業するなら飲食業でと思うようになった。飲食業なら小資本で起業できるというのが1番の理由。2つ目の理由は、「水商売」と言われるほど不安定で、産業基盤の脆弱な業界であり、そうであればなおさら自分なりの仕事を残せるのではないかと考えたからだった。

28歳のとき、大阪の十三(じゅうそう)で4.5坪の小さな寿司店を開店。1年後に4階建てで床面積120坪、106席の大阪で最も大きい寿司店を開店した。当初、社員たちには自分がする通りに、寿司を握らせ、接客させていたが、やがて社員に任せることを考え、その方法を工夫した。

■従来の飲食業は社員の能力が高まるとのれん分けし独立させたが、基本的な理念を一致させた上で、どこまでも社員の能力を高めつつ、並行して多店舗展開を図ることで、全員の能力を生かしながら、さらに上を目指すことが可能になった。

■同社は、この方法で、現在、関西を中心に80店舗を展開。3500人を擁する大企業に発展している。

取材先 がんこフードサービス
取材 2020/06/19
掲載 リーダーシップ2020/08
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki230

 
 
「がんこ」の看板 
 
【1401c07】 お腹を空かせた人々のために
チキンラーメンを開発する
  
  


■敗戦後の日本はほとんどの人がお腹をすかせていた。そんな人たちのために何かできることはないか、と安藤百福翁(1910-2007)は考え、復員軍人、引揚者、疎開地からの帰還者など、100人以上を集めて製塩事業を始め、その収益で彼等に食事と小遣いを提供した。

■しかし、そのとき源泉徴収していなかったことから脱税容疑で収監され、財産を没収された。さらにその後、理事長を引き受けた信用組合の経営が破綻したことも加わり、すべての財産を失った。

■何もかも失った百福翁は自宅の裏庭に研究小屋を建て、お湯をかけるだけで食べられる麺の開発に取り組んだ。1年後の1958年に「チキンラーメン」を開発。さらに13年後の1971年に「カップヌードル」を開発した。

取材先 日清食品
取材 2021/04/22
掲載 リーダーシップ2021/06
探訪記 
http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki240.html


 


チキンラーメン(上)とカップヌードル
 
【1401c08】 国のため、社会のために織機の開発に生涯をささげる      


■トヨタグループの創始者、豊田佐吉翁(1867-1930)は、少年時代から「生まれたからには何かお国のためになることをしなければ…」と考えていた。

18歳のとき専売特許条例の施工を知って発明を志し、母の機織りを見てその改良を生涯のテーマとした。

■木製人力織機、汽力織機、そして、晩年に発明したG型自動織機は世界的織機メーカープラット社から高く評価され、同社に求められて、ヨーロッパ、カナダ、インドでの特許権を10万ポンドで譲渡した。

■「自分は織機の発明に生涯をささげた、お前はお国のために自動車をつくれ」佐吉翁は長男の喜一郎にそう言い残し、プラット社からの10万ポンドを自動車の開発に使うように言ってこの世を去った。

取材協力 トヨタ産業技術記念館
取材 2021/11/17
掲載先 リーダーシップ2022/01
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki246.html 

 
 
木製人力織機(トヨタ産業記念館提供)
 
 
【1401c09】 石炭によって宇部のまちを発展させると誓う   


■宇部の沿岸部からは、石炭が出て、地表付近の石炭は容易に取り出すことができ、住民は昔からそれを煮炊きに使っていた。戸長役場用係だったの渡辺祐策翁(1864-1934)は、石炭の採掘権を買って炭鉱経営を始めたが、良質の石炭に行き当たらず、閉山するということを度繰り返した。

3度目の探鉱事業を起こすために、知人の間を奔走して資金を集めた。「2度も失敗してまだ懲りんのか」と言われたとき「いや、石炭は宇部の宝だ。このまちは必ず石炭によって発展する。必ず成功させてみせる」と答えたという、

1897年に沖の山炭鉱を創業。最初に出た石炭は質の悪いもので、落盤事故で犠牲者も出た。さらに借金を重ね、新株を発行して出資者を募って事業を継続し、4年を経てようやく良質の石炭層まで掘り進め、その後、石炭産出量は飛躍的に伸びた。

■祐策は1912年から衆議院議員となって地域の発展に尽力し、石炭による利益のほとんどを、火力発電所建設、鉄道の敷設、上水道の敷設、宇部港の築港、学校や病院の建設…など、宇部のまちのインフラ整備に投入した。

取材先 宇部市ふるさとコンパニオンの会
取材 2018/12/14
掲載先 リーダーシップ2019/02tanbouki/tanbouki212.html 

 


部新川駅前の渡辺翁記念会館と
渡辺祐策翁銅像
 
 
【1401c10】 「千両分限者」になろうと江戸に出て両替商をめざす    


■安田財閥の創始者、安田善次郎翁(1838-1921)は、富山藩の下級武士の子として生まれた。父は「陰徳を積め、人のためになることを黙々と行ってこそ人格は磨かれていく」と繰り返し教えた。善次郎(幼名は岩次郎といった)は読み書き算盤に長じ、「太閤記」を写本して小遣いを稼いでいるうちに、太閤秀吉にあこがれるようにもなった。

13歳のとき、藩に御用金を持参した両替商の手代に、勘定奉行が丁重に頭を下げる様子を見て、自分も「千両分限者」になると心に決め、15歳のとき1人で出奔して立山を越えて江戸に向かおうとしたが、道に迷ってやむなく引き返し、18歳で改めて江戸に出て、乾物商に奉公した。

■奉公先では率先して人の履物を揃えるなど、陰ひなたなく働き、給金を貯金して、それを元手に24歳で自ら乾物屋と両替商を兼ねる店を開いた。やがて、銭両替商から本両替商となり、安田銀行、国立第三銀行を経営。明治以降の殖産興業を資金面から支え、その後の安田財閥を築いた。

取材先:安田善次郎翁記念室
取材:2022/06/01
掲載先 リーダーシップ2022/07 
探訪記:
http://www.souisha.com/tanbouki/
tanbouki251.html

 


安田善次郎生家(安田善次郎翁記念室提供) 
と 安田銀行本店(中央区立京橋図書館提供)
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