改善の事典  》 第14章 社会  》 困難を乗り越えて自分の使命をみつける
 
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社会‐1402c 困難を乗り越えて自分の使命をみつける
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困難は世の中の厳しさやそれまでの自分に足りなかったものなど、様々な気づきを与えてくれます。そんな困難を乗り越えたことで、自分の進むべき方向が決まったという事例を集めました。

 このページの掲載事例→                 ●1402c01 1本の帯を売ろうとして商売の厳しさを知る  
●1402c02 困難を乗り越えて入浴サービスの仕事と出会う
●1402c03 突然に主婦から社長に就任。下請けから脱出しグローバル企業に導く 
●1402c04 反対運動の中、里山を再生し、環境問題への理解を深める  
●1402c05 難病で亡くなった娘さんのために
1人でも多くの人の生命を救う 
●1402c06 西洋鍛冶屋をめざし貧困から脱出する  
●1402c07 逆境の中から生まれたシャープペンシルとラジオ 
●1402c08 戦争体験から
生活必需品が安心して買える社会をつくろうと誓う 
 
●1402c09 従業員に大火傷を負わせて以来、人々のために何かを残そうと誓う  
●1402c10 再び与えられた生命に恩返しする  
●1402c11借金返済から逃げずに頑張り、今を築く   
 
【1402c01】 1本の帯を売ろうとして商売の厳しさを知る  


小杉織物社長の小杉秀則さんは、祖父の代から続いた機屋の家業が傾いたとき、大学を中退して父を助けようと決心した。

■父にそう告げると、父はライトバンに帯を積み込み「この帯を売ってこい。全部売れるまで帰ってくるな」と命じた。北陸一体の旅館と民宿を何日もかけて11軒くまなく回ったが、まったく売れず、売れたのは父の知り合いだった民宿のおばさんが、赤い帯2本を500円で買ってくれただけだった。

■売りたいという気持ちだけでは売れない。相手のニーズを見極め、それに沿って提供してこそ商品は売れる。このときの苦い経験がそれを乗り越える強い心を教えてくれたという。

■アメリカ向けのファッションベルトをつくってくれないかという話がある商社からもたらされた。同業他社は見向きもしなかったが、小杉さんはそれを引き受けることを決め、日本の帯をアレンジしたベルトはアメリカだけでなくヨーロッパでも大いに売れた。

■この仕事の中で和洋折衷のデザインをたくさんつくり、それを蓄積したことが、後の浴衣ブームの中で若い人たちの心をとらえ、同社はいま浴衣帯のトップメーカーの地位を築いている。

取材先 小杉織物
取材 2018/06/12
掲載先 リーダーシップ2018/08
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki206.html

 
ショールームのつくり帯
 
【1402c02】 困難を乗り越えて入浴サービスの仕事と出会う  

■福祉の里の矢吹孝雄社長は、入浴サービスの仕事と出会うまでに筆舌に尽くしがたい困難を経験した。

■困難の起源は義兄が始めた会社の倒産だった。債権者から逃れるために義兄は姿を隠し、義兄の下で働いていた矢吹さんも債権者から追われ、故郷から遠く離れた名古屋で身元を隠してバキュームカーに乗って働いた。

■娘が学齢期に達して住民票を移したとき、債権者がそれを知って訪ねてきた。そのとき、債権の大半は両親が肩代わりしてくれていたことがわかり、矢吹さんはようやく自分の働きの中から計画的に返済できるようになった。

■その後、故郷に帰って、余命いくばくもない父を、弟と2人で風呂に入れたことがあった。その時、父が大層喜んでくれたことがきっかけとなって、入浴サービスこそ自分の天職だと思うようになり、入浴サービスの会社を興した。

■介護保険制度の開始で事業範囲が拡がり、現在は、入浴サービスに加えて、在宅介護サービス、デイサービス、寝具乾燥サービス…など、多角的に事業展開している。

取材先 福祉の里
取材 2018/07/12
掲載先 リーダーシップ2018/09
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki207.html

 
プラスチック製の浴槽を運ぶ
 
【1402c03】 主婦から社長に就任。下請けから脱出、グローバル企業に導く  


■主婦だった藤浪芳子さんは、経営のほとんどすべてを担っていた夫の突然の出奔によって、急遽昭和精機の2代目社長となった。同社は大手K社下請けで、プレス機の安全装置と空圧回転継手を製造していた。

■社員や税理士に教わりながらそれまで通りの仕事をなんとか続けるうちに、この会社が創業者である藤浪さんの父と元営業マンが設立した販売代理店のS社から言われるままにK社のための製造を行い、利益のほとんどがS社の欲しいままになっていることが分かった。

■藤浪さんはS社との決別を決意。K社に直接取引を申し入れた。「あなたは主婦の顔をしている。あなたに社長が務まるとは思えない。悪いことは言わないから、S社との関係を続けなさい」K社の資材部門責任者はそう言ったが、数カ月にわたって毎日通い詰めた藤浪さんの熱意に折れ、直接取引に応じてくれるようになった。

■経営者はお客様を納得させつつ利益を生み出すことに責任を負っている。その責任を果たすために藤浪さんは必死になって勉強し、やがて技術者たちと対等に議論を戦わせられるようになった。

■新製品の開発力も生まれ、さらに、自ら海外に赴いて海外の取引先も開拓した。今日では、同社製品の一部は海外現地法人に製造を委託しており、同社製品の6割は海外で販売されている。

取材先 昭和精機
取材 2018/09/27
掲載先 リーダーシップ2018/11

探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki209.html

 
昭和精機の製品
 
【1402c04】 反対運動の中、里山を再生し、環境問題への理解を深める   


■埼玉県のくぬぎの森の石坂産業は、産廃の焼却炉によるダイオキシン発生の元凶とされ、地元住民から「出ていけ」という反対運動が起こり、得意先もどんどん離れていった。

■そんな中で石坂典子さんは、父親で社長の石坂好男氏が、産廃を海に埋め立てることに疑問を感じ、自らリサイクル工場を作って、子どもに継がせたかったというのを聞いて、「それなら私に社長をやらせてください」と言った。

■石坂さんは父とともに産廃の海への投棄も焼却も全廃し、完全にリサイクルさせる工場を作り上げた。

■それでも地域住民の中に同社への続いた。産廃はみんなが捨てたもの。その処理の行方を知らないまま、人々は反対を唱えていた。それなら産廃事業者の側からもっと積極的に発信すべきと考えるようになり、リサイクル工場の見学路を設置、工場周辺の5Sを徹底、荒れ放題だった周辺のくぬぎの森を整備し、見学に訪れた人たちが散策できる里山を復活させた。

■この取り組みが徐々に評価されるようになり、今日では同社に産廃処理を依頼するハウスメーカーや解体事業者が増え続けている。

取材先 石坂産業
取材 2020/02/05
掲載先 リーダーシップ 2020/04
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki226.html

 




産廃のリサイクル工場(上)と
それを、見学する小学生たち。
 
 【1402c05】 難病で亡くなった娘さんのために、1人でも多くの命を救う    

東海メディカルプロダクツ(愛知県春日井市)の創業者、筒井宣政さんの娘さんには、生まれながらの重い心臓病があった。娘さんに手術を受けさせたいと筒井さんは必死に働いて、2000数百万円のお金をため、そのお金で手術をしてほしいと、主治医に頼んだ。しかし、娘さんの体力は手術には耐えらないという。人工心臓を使うことも考えられたが、当時の人工心臓はまだ実用段階ではなかった。

■筒井さんは、そこで、奥さんとともに人工心臓の開発に取り組み、8年をかけて動物実験まで成功させた。しかし、実用化のためにはさらに100例の動物実験と人間を対象にした治験が必要で、そのためにはさらに莫大な資金が必要で、とても1私企業でできる仕事ではない。

■やむを得ず、開発の対象を、狭心症や心筋梗塞に陥った心臓の機能を一時的に回復させるIABPバルーンカテーテルに転換。それまでのアメリカ製品を改良したバルーンカテーテルの国産化に成功した。しかし、娘さんの心臓病に役立てることはできず、娘さんはしばらくして亡くなった。

亡くなる前、カテーテルが売れたと聞くたびに娘さんは「また1人の生命を救ったのね」と喜んでくれた。そのことから、筒井さんは東海メディカルプロダクツの企業目標を「1人でも多くの生命を救う」と定めた。

■バルーンカテーテルはその後、IABPのほか、腎臓透析患者用、腹部がん治療用、脳血管治療用などが開発され、海外にまで輸出されて、多くの人の生命を救うことに役立っている。


取材先 東海メディカルプロダクツ

取材 2016/11/02
掲載 リーダーシップ2017/01
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki187.html

 


IABPバルーンカテーテル国産第一号(上)
とカテーテルの製造工程
 
 【1402c06】 西洋鍛冶屋をめざし貧困からの脱出を
図る
 


■クボタの創業者、久保田権四郎(生名、大出権四郎 1870-1959)は、年貢米が金納に変わったことで幼児期に両親の困窮を目の当たりにした。

■秋祭りに子供に持たせる小銭がなく、母が畳に突っ伏して泣いている姿が、その後の自分を作ってくれたのだと後に語っている。

■生家のあった因島の丘から海を行く蒸気船を眺め、自分は西洋鍛冶屋になって両親をラクにさせたいと誓いを立てて、14歳で大阪に出て鍛冶屋をめざし、19歳で「大出鋳物」を立ち上げた。

■大出鋳物は後に久保田鉄工所と名前を変え、全国の60%のシェアを持つ鋳鉄管メーカーとなり、今日のクボタに繋がっている。


取材先 
クボタ

参考文献 沢井実著「日本の企業家4・久保田権四郎」
PHP研究所 2017

取材 2021/10/27
掲載先 リーダーシップ2021/12
探訪記 
http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki245.html

 
18才当時の大出権四郎(右端)と家族
  
 【1402c07】 逆境の中から生まれたシャープペンシルとラジオ   

■シャープ創業者の早川徳治翁(1893-1980)は、生れてすぐ養子に出され、過酷な少年時代を送った。十分な食事を与えられず、マッチのレッテル張りの内職を強いられ、小学校も十分に行かせてもらえなかった。

■子どもなりに過酷な仕事を少しでも早くラクにする工夫を考えたという。その境遇に同情し励ましてくれる人も少なくなかったが、そこから脱出できたのは8歳で丁稚奉公に出てからだった。

■丁稚奉公の中で、錺(かざり)職人としての技能を身に着け、19歳でベルトのバックル(徳尾錠)を発明して独立。翌年、シャープペンシルを発明し、事業は大きく発展した。

■しかし、関東大震災で家族も工場も失い、さらにシャープペンシルの事業も特許権も失った。

■すべてを失って東京から大阪に移り、ここで新しい会社(後のシャープ)を立ち上げた。そして、国産第1号のラジオ、テレビ、電子レンジ、電卓などを生み出し、総合電機メーカーとして飛躍する。

■少年時代、過酷な環境の中で培われた強靭な精神力がなければ、生まれることのなかった偉業と言ってよい。


取材協力:シャープミュージアム
取材:2022/04/27
探訪記:http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki250.html 

 


錺職人見習い時代の早川徳次翁
(上写真前列右端、1906)と
鉱石ラジオを研究する徳次翁(下写真右)
 
  【1402c08】 戦争体験から
生活必需品が安心して買える社会をつくろうと誓う
 
 


■スーパーマーケット・ダイエーの創業者、中内功(19222005)は、戦時中のフィリピンでの米軍との戦闘で瀕死の重傷を負った。その痛みと飢えにさいなまれながら逃避行を続け、そのとき一家6人ですき焼きを食べている夢を見たという。

■戦後になって、家業の薬局を再開し、薬を販売し、やがて食品、日用品などを販売。流通革命を推進して全国にチェーン店を展開した。

■中内は、自分の意識の根底には、戦争中の悲惨な体験があり、あのときの食べ物への執念と悲惨な戦争を遂行させた精神主義への反発が骨の髄までしみ込んでいた。日々の生活必需品が安心して買える社会をつくることを戦死した人々に誓っていたと語っている。

取材先 中内功記念館
取材 2020/08/07
掲載 リーダーシップ2020/10
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouk232
 

 
流通科学大学(神戸市垂水区)
内の中内功銅像 
 
 【1402c09】 従業員に大火傷を負わせて以来、
人々のために何かを残そうと誓う
 
 


■近藤典彦さんが創業した当初の自動車解体作業は劣悪な3K職場で、環境への配慮も、安全への配慮も、お粗末なものだった。

■あるとき、フォークリフトで持ち上げた解体車が傾いて、従業員がガソリンを浴び、引火して大火傷を負った。

■駆け付けた彼の父に、近藤さんは土下座して「とんでもないことをしてしまいました。今日限りこの仕事を辞めます」と言った。彼の父は「頭を上げてください。辞めるなんて言わないでください」と言ってくれた。以来、どんなことがあっても従業員は守らねば…と強く思うようになった。

■その後、ある僧の説法を聞き、人はいつか死ぬ。死ねばすべてが無くなる。しかし、その一方で、1人の人間は万人とつながっていて、多くの人から影響を受け、多くの人に影響を与えている。そう考えると、自分の人生は自分のものではない。自分がどれだけいい思いをしたかではなく、周りの人をどれだけ幸せにしたかが人生のすべてだろう、と考えるようになった。

■そして、自動車リサイクルの仕事で何かを残すことが自分の使命であり、そのためにもっと身を正さなければと思うようになった。以来、酒、たばこ、ゴルフ、麻雀…を断って会宝産業を創業。自動車リサイクル事業をグローバルに展開している。

取材先 会宝産業
取材 2019/07/29
掲載先 リーダーシップ2019/09
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki219.html

 


自動車リサイクル作業風景(上)と
倉庫内の中古エンジン
 
 【1402c10】 再び与えられた生命に恩返しする   


■義肢装具製作会社、中村ブレイスの創業者、中村俊郎氏は、アメリカに渡って欧米流の義肢装具づくりを学んで、患者の痛みや苦しみへの共感を深め、この仕事を通じてこの人たちを支えたいと考えるようになった。

■そんなとき、大きな交通事故に遭遇した。自転車で走行中に車に当て逃げされ、医師からもはや手の施しようがないと見放されて、霊安室に安置されているときに、意識が戻り、奇跡の生還を果たした。

■一度失った生命を再び与えられた。その恩返しをしたいという思いから、残された自分の人生を仕事と周りの人たちへの感謝にささげたいと考えるようになったという。

取材先 中村ブレイス
取材 2019/04/24
掲載先 リーダーシップ2019/07
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki217.html

 
中村ブレイス本社
 
 【1402c11】 借金返済から逃げずに頑張り、今を築く   


■歯科技工士の営業活動を受託している叶ャ田デンタルの石川典男社長は、先輩と2人でこの会社を起こした。当初は先輩が社長だったが、高利貸から多額の借金をして姿をくらませた。石川さんは社長職を引継ぎ、何年もかけて借金を返済し、会社を軌道に乗せた。

■途中で、「会社は一旦つぶした方がいい。新しい会社をつくるのなら、応援する」と言ってくれた人がいた。そのとき何度も考え直してこう答えた。「こうなった責任の半分は私にあります。会社をつぶして新たに立ち上げるというのは、その責任から逃げることでしょう。逃げれば、同じような困難にぶつかったとき、また逃げてしまうと思うのです」

■結局、この人が株の半分引き受けてくれ、石川さんが営業して受注した仕事の加工を引き受けてくれ、借金を返済。技工士たちへの支払も期日通りにできるようになった。

先輩がなぜ自滅したのかを考えたとき、「自分よりも相手のため」という気持ちが不足していたのだと気づいた。2人ともお金と地位と名誉を手に入れたかった。自分のためだけに働いていれば、人が離れていくと言うことに気付かなかった。「自分よりも相手のため」を貫いてこそ、相手はこちらを信用する。先輩がつまづいて倒れたのを見て初めて、そのことに気づいた。

■会社は従業員のものであり、従業員の生活を良くすることが会社の第一の存在理由である。従業員の生活をよくするにはお客様によくなって貰わねばならず、それが、業界と社会全体をよくすることにつながる。従業員の生活を安定させないで社会貢献を言っても始まらない、と石川さんは考えている。

取材先 成田デンタル
取材 2008/01/21
掲載 ポジティブ08/03
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki060.html 

 
成田デンタルのポスター
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