改善の事典  》 第12章 組織  》 リーダーシップを発揮する
 
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組織‐1213a リーダーシップを発揮する BACK
 このページの掲載事例→                       ●1213a01 状況がリーダーシップを促す  
●1213a02 人心荒廃した会社を建てなおす 
●1213a03 人が離れていくとき自分自身に3つの原因がある
●1213a04 会社は社長1人で動いているわけではない
●1213a05 変化への対応力を失った組織を再構築する  
●1213a06 力を出し切った後はお昇天様に委ねる
●1213a07 口にしたことは必ず実行する
●1213a08 万事好転するとの信念を持つ    
●1213a09 行き詰まったら初心に戻る 
●1213a10 経営者の仕事は専門家たちに気持ちよく働いてもらうことである  
●1213a11 社長は決めたことすべてに責任を負わねばならない   
●1213a12 逃げずにかかっていかんか
●1213a13 率先垂範する
 
【1213a01】状況がリーダーシップを促す  


■役職がリーダーシップを生むのではない。リーダーシップを発揮せざるを得ない状況が人にリーダーシップを促し、それ人々を巻き込んでイノベ―ションを起こすのだ…と万協製薬の松浦信男社長はいう。

■万協製薬は神戸の外用薬専門の医薬品メーカーだった。1995年の,阪神大震災で工場が倒壊。製造設備だけが残った。父から社長職を引き継いだ松浦さんは、社員に会社再建への協力を求めたが、誰もついてこなかった。

■中堅製薬会社T社の提案で、松浦さんはT社の負債の連帯保証人となり、T社社長職を引き受けることで、万協製薬の設備で、従来通りの製品を作り続けることになった。何人かの元社員も戻ってきてくれたが、そこで製造した製品はT社製品で、万協製薬の製品とは認められなかった。

■松浦さんの父とT社オーナーとの関係が悪化したこともあって、松浦さんはT社社長を解任され、1年の猶予の後に万協の設備による万協製品の製造は打ち切られることになった。

■1年の猶予期間中に松浦さんと元社員たちは、力を合わせ、三重県に新しい工場を建設。万協製薬としての生産を再開した。

■「万協」の名前を残すことにこだわったが、自社工場で自社製品を作れるようになってからは、世の中から必要とされるものをつくり続ければそれで十分と思うようになった。

■自分のリーダーシップへの自信も生まれ、社員の意見も取り入れ、従来製品をつくったあとの余力で他社のアウトソーシングを引き受けるようになった。現在は、そのアウトソーシング分野が大きく成長し、会社は順調に発展している。



取材先 万協製薬
取材  2010/07/17
掲載  リーダーシップ2010/10
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki103.html

 
万協製薬の工場内部
 
【1213a02】人心の荒廃した会社を建てなおす   


■中央タクシーの宇都宮恒久会長の父は、同業組合から頼まれてあるタクシー会社の経営再建を引き受けた。宇都宮さんが1事務員として、それを間近で見たことが、後の中央タクシーの経営に大きな影響を与えた。

■経営再建を引き受けたその会社の従業員の心は荒廃していた。夏の暑い日、ランニングシャツのまま乗務しようとした乗務員に「着替えてこなければ乗務させない」と父が言うと、「社長だからといって、でかい面するな」と彼はすごみ、靴ベラを叩き割って、ギザギザに尖った先端を突きつけたが、父はひるまなかった。

■乗務員はやがて、靴ベラをポイと捨てて立ち去った。また別の乗務員は、お金を持っていなかった乗客を無賃乗車だと決めつけ、宇都宮さんが制止するまで、殴る、蹴るの暴行を加えた。

■「ここの従業員の心を立ち直らせるには10年かかる。そこまでお前に付き合わせるわけにはいかない」と父から促され、宇都宮さんは、この会社を離れ、新たに中央タクシーを興した。

■父は会社の赤字を埋めるために自分の財産をつぎ込み、自宅も手放した。そのことを知った組合の委員長が協調路線に転じ、他の従業員も徐々にそれに従うようになった。やがて業績が好転。10年を経てようやく赤字を脱した。

■それを見届けて、父は宇都宮さんの兄に社長職を委ね、しばらくして他界した。「父は身を削って再建を果たしました。それは私に正しい経営のあり方を教えるためだったと思えてならないのです」と宇都宮さんは言う。 



取材先 中央タクシー
取材  2011/10/21
掲載  リーダーシップ2011/12
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki126.html

 
中央タクシー本社
 
【1213a03】人が離れていくとき自分自身に3つの原因がある  

■北九州市のスーパー、ハローデイの社長、加治敬通さんが、経営者の勉強会で「あるべきリーダー像」を語り合っていたときのことである。

■会社が危機に陥り、取引先が商品を入れてくれなくなり、従業員も次々辞めていったことを思い出しながら「経営者って孤独ですよね」と加治さんが言った。

■先輩経営者の1人がこう答えた。「そうか。キミは辛い経験をしてるんだ。でもな、逃げていく人をさすときどう指をさす?」加治さんが人差指を突き出すと、先輩は続けた。

■親指と人差指以外の3本は自分をさしているだろう。逃げていった人を悪いと君は思っているかも知れないが、これは、自分にも悪いところが3つあると神様が教えてくれているんだよ。

■代金を回収できないかもしれない会社に取引先が商品を卸すのをためらうのは当然のことだし、給料を払ってくれないかもしれない会社から従業員が辞めていくのも当然のことだ。

■でも、そんな会社にも商品を卸してくれる取引先があり、辞めずに働いてくる従業員がいるんだろう。そういう取引先や従業員こそ大事にすべきじゃないか?

■その言葉は骨身に沁みた。1人で会社を支えているつもりでいたけれど、言われてみると、自分の周りにはこの会社のために働いてくれる社員がおり、パートさんたちがいる。自分は1人ではないと思うと嬉しくて泣けて仕方がなかった、と加治さんは言う



取材先 ハローデイ
取材 2013/11/19
掲載 リーダーシップ2014/01
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki152.html

 
 
 【1213a04】会社は社長1人で動いているわけではない  


稲田二千武さんは22歳でファミリーイナダを創業した。店の陳列棚づくりなどを引き受けていたが、マッサージチェアのボディづくりを引き受けたことがきっかけで、マッサージチェアメーカーとなり、大きく成長した。

■そのことに慢心し、自分をビジネスの天才かもしれないと思うようになったとき、労働争議・工場火災・手形の不渡りに見舞われ、銀行から取引停止を宣告され、仕入先も資材を売ってくれなくなった。

先輩経営者にアドバイスをもとめにいったとき、自分1人で会社を動かしていると思っていたが、社員の支えがあって会社が成り立っているのだ…と初めて気付いた。

■「苦境を脱するにはみんなの協力が必要なのだ」と頭を下げ社員に懇願した。社長が社員の意見を聞く気になってくれたことに、社員は感動し、会社再建への協力を約束してくれた。それを文書にし、みんなが署名押印した。

■その文書を持って、幹部社員とともに銀行と取引先を11軒訪問し、頭を下げ、取引の再開を頼んで回った。社員たちも会社を支える気になっていることが、何軒かの取引先を動かし、取引を再開してくれるところが現れ、それを見て銀行も取引を再開してくれるようになり、同社は危機を脱したという。



取材先 ファミリーイナダ
取材 2017/11/27
掲載 リーダーシップ2018/01
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki199.html

 
マッサージチェアの組み立て
 
 【1213a05】変化への対応力を失った組織を再構築する  


■渡辺精密工業の高品質ゲージの技術は高い評価を受けていた。しかし、歴代の経営者はそのことに慢心し、いつしか得意先ときちんと向き合い、改善改革し、さらに上を目指す姿勢を失って、バブル崩壊後の大幅な受注減から立ち直れなくなった。

4代目社長となった寺西正明さんは、組織の再構築をめざし、次のような手を打った。
@始業前にみんなでラジオ体操を始めた。
Aお客様や協力会社の呼び捨てを禁じた。
B世の中の動きに目を向けるために新聞記事を回覧、リーダークラスを対象に輪読会を開催し、世間に目を向け、自分たちの現状を振り返らせた。
C高すぎた処遇条件を会社の実力に合わせて見直し、個別面談して不利益変更への同意を求めた。

■その後、新しい機械の導入、新卒採用の再開、多能工化・多工程持ちなどを推進。変化を肯定的に受け止める社員が増えていき、新しい航空機部品のゲージの受注に成功。力を合わせて作り上げたゲージが高く評価されたことが、社員に大きな自信を与えた。

■現在は、小集団活動によって改善意識を養い、チームワークを高め、リーダーの養成に力を注いでおり、会社の未来を信じた社員だけが残り、みんなで力を合わせて頑張っている。




取材先 渡辺精密工業
取材 2018/03/07
掲載 リーダーシップ2018/05
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki203.html

 



球面基準測定ゲージ(上)と社員集合写真
 
 【1213a06】力を出し切った後はお昇天様に委ねる    
 
■主婦から昭和精機の社長に就任。会社を下請けから脱出させ、グローバル企業に育てた藤浪芳子さんには昇天信仰がある。

■引っ込み思案な性格を克服したいと思って若いころからお百度参りを重ねた。その結果、もうこれ以上はできないというところまで自分の力を100%出し切ったら、あとはお昇天様に任せ、結果をそのまま受け入れることができるようになった。

■大手企業から、ある装置を月に100200台発注することになるかみしれないという話があった。製品開発の段取りを進める傍ら、新工場の建設、新しい設備の導入、人の採用まで計画した。しかし、開発の最終段階で、別の大手に発注することになったからもういいと言われ、すべての努力が水泡に帰した。

■その後バブルが崩壊。藤浪さんの手から大手がもぎ取っていった開発案件は月に100200台にはるかに及ばず月1020台に終わった。もしも自分たちが受注していたら、工場を建て、設備を入れ、人を採用し、その結果、大きな負債を抱えて、倒産していたに違いない。

■あれはあれでよかった。思い通りにことが運ばないときは、お昇天様が諦めたほうがいいよと言っておられるのだと考える。そう思えれば、パッと気持ちを切り替えて、次のステップに進んでいけるようになると藤浪さんは言う。



取材先 昭和精機
取材 2018/09/27
掲載先 リーダーシップ2018/11
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki209.html

 
藤浪さんの著書「明日に繋ぐ」(2011)と
「女社長、世界を翔ける」(2016)
 
 【1213a07】口にしたことは必ず実行する    


■がんこフードサービスの創業者、小嶋淳司さんが、大阪の十三に4.5坪の小さな店を出店した時、店の2階に6畳の間と3畳の間があり、小嶋さんと若い3人の社員は毎晩6畳の間で雑魚寝していた。隣の3畳の間で酢飯を仕込むから、そのにおいが充満するものすごい環境で、小嶋さんはそのことを申し訳なく思いつつ、「みんなで頑張って、必ず儲けて、もっと大きな店に移ろう。その時は、その店より大きな寮を建てて、1人ずつ個室にないってもらうから」と言った。

■何度もその話を繰り返すうちに、彼らが「ウチの社長は嘘つきや、大ほら吹きや」と言っているのを聞いた。確かにそうだ。話だけでは誰も信じるはずがない。自分が口にしたことはひとつひとつ実現していかない限り、社員たちはついてこない。そのことを痛烈に思い知らされた。

1年後、総床面積120坪のパチンコ店に入らないかという話しが舞い込んできた。蓄えはわずかだったが、このチャンスを逃すと次はいつになるか分からない。挑戦しないで諦めるより、とりあえず挑戦することの方が大事だと思って「そこ、私が借ります」と答えた。

■困難を乗り越え、幸運も重なって、大阪で一番大きな寿司店がこうして誕生し、その後全員個室の社員寮も完成した。



取材先 がんこフードサービス
取材 2020/06/19
掲載 リーダーシップ2020/08
探訪記 
http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouk230

 
「がんこ寿司」1号店の外観
 
 【1213a08】万事好転するとの信念を持つ     


■三洋電機が最初の製品、自転車用発電ランプ第1号を完成させて数カ月後、守口工場が漏電による出火で全焼した。東京出張中にこの報を受けた井植歳男社長は、電話口でこう言った。

■「焼けた? 丸焼けか? … しあないッ。すんでしもうたことや。ご近所に謝っとけよ。ワシはこれから商工省へ行って統制品の木材の割り当てをもらってくる。そしてすぐに、能代へ飛ぶ。木材の手配をし、木組みを見届けるまで帰らんッ。まあ、気ィ落とさんと」

■「すぐ帰る」という期待した返事はなかった。火事を報じたその電話のやり取りの中で、工場再建のための木材の調達にまで思いを巡らせた井植のこの言葉に、後に副社長となった後藤清一翁は、自分が仕えた井植の豪胆さ、思慮深さに感じ入り、ずっとこの人についていこうと思ったという。指導者というものは、いかなる難事に直面しようとも、万事好転するとの信念を持たねばならないのだ。



取材先 杉本勲氏
取材 2021/03/24
掲載 リーダーシップ2021/05
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki239.html


北条製造所の開所式。前列3人目が井植歳男、4人目が後藤清一
 
  【1213a09】行き詰まったら初心に戻る     


■島正博氏が島精機製作所を立ち上げて最初に開発した全自動手袋編機(初期型)は、高い評価を得た発明だったが、加工技術の未熟などで品質が安定せず、その一方で、多額の開発投資の金利の支払いに苦しみ、周りの支援でようやく苦境から脱した。

■島さんはその後、装置の一部を簡素化して、改めて全自動手袋編み機(角型)を開発し、この全自動手袋編み機(角型)が大ヒットして同社のその後の経営基盤を支えた。

島さんはバラック住まいだった少年時代、窓から蜘蛛の巣を観察したことがあった。蜘蛛はいつも巣の真ん中に陣取っていて、獲物が巣にかかると素早く移動してそれをとらえ、また巣の中央に戻る。真ん中にいれば、いつでも最短距離で獲物をとらえられる。そのことから、行き詰まったときは初心に返り、周囲を見渡してリセットして原点に返ることが大事だと気づいた。

全自動手袋編機(初期型)から全自動手袋編機(角型)に1歩後退して出直したのは、島さんの記憶の中の蜘蛛の巣の教えがよみがえったからだという。 



取材先 島精機製作所フュージョンミュージアム
取材 2021/06/04
掲載先 リーダーシップ 2021/07
探訪記 
http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki241.html

  


全自動手袋編機(初期型)と蜘蛛の巣
 
  【1213a10】経営者の仕事は専門家たちに気持ちよく働いてもらうことである      


■岩崎弥太郎(1835-1885)と渋沢栄一(1840-1931)は同時代の人で、渋沢が株式会社制度(合本主義)による経営の民主的な運営を主張したのに対して、弥太郎は社長の独裁による経営を主張した。三菱会社の社則は次のようだったという。

第1条 当商会は姑(しばら)く会社の名を命じ、会社の体をなすと言えども、その実一家(岩崎家)の事業にして他の資金を募集し結社する者と大いに異なり、故に会社に関する一切のこと、および褒貶(ほうへん、褒めたり叱ったりすること)、黜陟(ちっちょく、功の有無により評価を上げ下げすること)等すべて社長(弥太郎)之特裁を仰ぐべし。

第2条 故に会社之利益は全く社長(弥太郎)の一身に帰し、会社之損失も亦社長一身に帰すべし

■また、明治政府の前島密との会談で、弥太郎はこう述べている。「自分の海運業の経験は大したものではない。操船もできないし、蒸気機関の知識もほとんどない。しかし、会社経営というのはその道の専門家がいくらでもいる。その人たちを採用してそれぞれの専門分野で気持ちよく働いてもらえばよく、私はそのお膳立て役に徹する」 



取材先 岩崎弥太郎生家
取材 2021/06/26
参考文献:河合敦著「岩崎弥太郎と三菱四代」(幻冬舎新書、2010)P87/山口幸彦著「評伝 岩崎弥太郎 日本海運界の暴れん坊」(長崎新聞社、2011)P168
掲載先 リーダーシップ 2021/08
探訪記 
http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki242.html


岩崎弥太郎生家前の銅像
 
 【1213a11】社長は決めたことすべてに責任を負わねばならない     

後にソニーの創業経営者となった盛田昭夫翁は、400年続いた酒造事業者の家に生まれた。昭夫の父、久左エ門は酒造会社の将来の社長として昭夫を育てた。

■昭夫が10歳を過ぎると、父、久左エ門は会社の事務所や酒の醸造所につれていき、事業がどのように運営されているかを教えた。中学生になると会議や部下との面談の場にまで連れていき、こう言ったという。

■「お前はやがてこの会社の社長になる。社長だからと言って威張れると思ったら大間違いだよ。社長というのは自分がやると決めたこと、部下にやらせようと決めたことを明確にして、結果に対してすべての責任を負わなければいけないのだ」と。

参考文献 盛田昭夫著「MADE IN JAPAN(朝日文庫1990)

掲載先 リーダーシップ 2022/10
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki254.html 
 
盛田昭夫5歳
 
  【1213a12】逃げずにかかっていかんか     
 

■松方幸次郎は川崎造船所創業者の川崎正蔵から請われて、この会社の代表取締役になった。松方の最初に仕事は、大型船を建造するため乾ドックの建設だった。

■海岸の浅瀬を掘って周囲をコンクリートのダムで覆い、地固めし、水を抜こうとしたが、水が噴出しコンクリートの壁が崩れた。軟弱地盤を固めるために,1万本の 松杭を打ち込んだり、スキ間にグリ石を詰めるなど、6年間も悪戦苦闘を繰り返した。

■莫大な予算を注ぎ込んでもなかなか先の 見えない難工事に,幸次郎は辞表を持って 正蔵を訪ねたことがあった。

■「一度逃げた 人間はまた逃げ出そうとする。そのほうがラクだからだ。逃げずにかかっていかんか」。そのとき正蔵は笑いながらそう言って辞表を返した。

■挑戦する課題が大きければ大きいほど困難も大きい。逃げずにかかっていこうとする意志が新しい可能性を開く。松方幸次郎は、このとき、そのことを学んだという。

参考文献 川崎重工業ホームページ (https : //www.khi.co.jp/

掲載先 リーダーシップ 2023/02

探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki256.html
 
神戸第一ドック
 
   【1213a13】率先垂範する    

■1883年、採算が悪化し、操業を停止していた官営深川セメント工場が浅野総次郎翁に貸し下げられ、翌年払い下げられた。
■自分のものとなったセメント工場に、総一郎は毎朝5時に出社し、6時に出社してくる工員たち1人ひとりに「セメントで焼けない家を建ててこの国の7財産を守ろうlと呼び掛けたという。さらに良い仕事をした者には給与を上げ、遅刻した者は黒板に名前を書き出すなど、信賞必罰を徹底した。

■セメント工場の床は熱く、職工たち下駄を履いて作業をしていたが、総一郎の妻、サクは、毎日工場に入って、職工たちが履きつぶした下駄を洗い、鼻緒をすげかえた。これによって職工たちは工場の業績に関心を払うようになり、工場の業績は大いに向上したという。

参考文献 出町譲著「九転十起」幻冬舎2013

掲載先 リーダーシップ 2024/01

 
浅野総一郎翁銅像(横浜市・浅野学園内)
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