改善の事典  》 第9章 コストダウン  》 生産性向上への組織的取り組み
 
TOP 編集のねらい 5S 安全 品質 作業 治工具 設備 省力 環境 コスト 事務 IT化 組織 お客様 社会 地域 探訪記 総目次 索引
 
 コストダウン‐0906 生産性向上への組織的取り組み  BACK NEXT
このページの掲載事例→       ●090601 商品センターを設置して流通革命を推進する 
●090602 セル生産に移行し生産性を向上させる
●090603 ハッチタイトネス試験方法の改善
●090604 改善の蓄積をデータベース化する
●090605 浴衣帯のコストダウンを図る
●090606 銅山経営を近代化する
●090607 工場で野菜をつくる
●090608 ジャストインタイム
●090609 ストックボートをつくる
●090610 千葉市沿岸部に一貫製鉄所を建設する 
●090611 副産品の澱粉を有効活用する  
 
【090601】商品センターを設置して流通革命を推進する  


■スーパーマーケット・ダイエーの創業者、中内功翁(19222005)は、アメリカのスーパーマーケットを見たことがヒントとなって、商品センターの設置を決めた

■商品センターでメーカーから一括して商品を仕入れ、商品検査のうえ各店舗に配送する。

■それによって各店舗が個別に仕入れるよりもコストが下がる。

■並行して、店舗の業務内容とレイアウトを標準化し、そうした店舗を各地に展開することで、コストを大幅に引き下げ、生活必需品を安く供給する体制を完成させた。




取材先 中内功記念館
取材 2020/08/07
掲載先 リーダーシップ 2020/10
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouk232

 
創業当時のダイエーの店頭に並んだ商品
 
【090602】セル生産に移行し生産性を向上させる
 


1999年、キヤノン電子の酒巻久社長は、効率の良い多品種少量生産体制を作るために、コンベア生産からセル生産に移行させた。

■コンベア生産方式は段取り替えに時間がかかったのに対して、数人のグループで小さな屋台の周辺に部品を置いて組み立てるセル生産方式は短時間で段取り替えができる。ムダな動きがなくなり、生産リードタイムが短縮された。

■移行に際して「TSS1/2」という目標を立てた。TSSTime & Space Savingの意味。時間・スペース・不良率・人と物の移動・電気使用量…などを半分にし、効率を2倍にすることをめざした。

■時間とスペースの節減の追求の中で、「椅子をなくす」というアイデアが生まれた。座り作業での組立では、部品供給のためのロボットの移動スペースが必要だったが、立ち作業なら、手を伸ばせば物が取れるから、ロボットも移動スペースも不要になり、時間とスペースが大幅に削減された。

■現場が立って作業するようになると、間接部門も何かあった時にすぐ現場に駆けつけられるように立って仕事をするようになった。会議もたったまま行われる。立った方が適度の緊張感があり、意見もアイデアも出やすく、短時間で結論が出せるという。

■「TSS1/2」は2年半後に達成され、2003年からの目標は「TSS1/4」となった。1999年を基準とするとトータルで8倍の生産性向上をめざすもので、現在はほゞそれを達成しつつある。

取材先 キヤノン電子
取材 2008/08/20
掲載 ポジティブ2008年10月号
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki071.html

 
セル生産の現場
 
 【090603】ハッチタイトネス試験方法の改善  

■「5万6000トン・バルクキャリア」は三井造船玉野造船所で最もたくさん建造されている船で、これまでの受注実績は120隻にのぼる。

■この船の甲板には、そこから船倉に荷物を積み込む四角く切り取られた5つの開口部があり、それぞれにハッチカバーという蓋がついている。穀物を積んでいるときは水が入らないよう、この蓋には厳重な水密性が要求されるが、その水密性を検査する工程に2つの問題があった。

■ひとつは検査の合格率が低く、3分の1が不合格だったこと。もうひとつは検査に時間がかかりすぎていること。検査は甲板から消火ホースで水をかけるが、準備に時間がかかり、雨が降ると作業ができなかった。

■この問題の解決に品質保証部の7人が取り組んだ。水密性検査の合格率の低さについては、様々な調査分析の結果、ハッチカバーについているベンチレーターという空気抜きの窓の塗装方法に問題があり、そこから水が漏れていることを突き止め、塗装方法を改善して、合格率100%を実現した。

■検査に時間がかかりすぎているという問題については、水をかける代わりに超音波測定器で検査することにした。船倉の中に音源を持ち込んで超音波を発信し、外で音圧を測る。漏れてくる音の量を受信器で測定し水密性が保たれているかどうかを判断する。この方法によって検査の段取りが簡単になり、雨の日でも検査ができるようになった。



取材先 三井造船玉野造船所
取材 2007/11/05
掲載先 ポジティブ 2008/01
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki057.html

 
建造中の5万6000トン・バルクキャリア
 
【090604】改善の蓄積をデータベース化する  

船舶は受注生産品で、航路や積荷の種類と量に応じて1隻ごとに一から設計する。三井造船玉野造船所で建造されている「56000トン・バルクキャリア」の場合、これまでに120隻の受注実績があり、実際には何年か前にも同じような設計をしている場合が少なくなく、その場合はその図面を取り出してきて手直ししていた。

問題は、たとえば材料の歩留まり向上のために材料取りの方法を改善し設計に反映しても、それ以前の図面に戻ればそれまでの改善成果がゼロに戻ってしまうことだった。同様にミス防止の改善、安全性向上の改善等々、現場が積み上げた改善がすべて何年か前に引き戻されてしまう。

自動車販売店では車種と型番と色が一覧表になっていて、その中から選んで注文すれば指定どおりの車が届けられる。同じことが船でもできないかと船殻設計課長の野崎修一さんは考えた。

■コンピュータの中で3次元CADデータの形で標準船を作り、すべての改善のデータをこの標準船データの中に蓄積する。これをベースに仕様変更する部分だけをその都度加えるようにした。課を挙げて標準船データづくりに取り組み、3年をかけて完成させた。

設計工数は大幅に削減され、従来1隻について4.5キロの重さがあった図面が、変更部分だけ現場に渡すので390グラムに激減。基本は標準船通りとし、変わる部分だけ特別仕様にするという作り方は現場の作業効率も向上させた。同社内の改善発表会で最優秀賞を獲得した。

取材先 三井造船玉野造船所
取材 2007/11/05
掲載先 ポジティブ 2008/01
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki057.html

 


TS56BCのCAD画像
 
【090605】浴衣帯のコストダウンを図る   


■日本人の生活から和服がどんどん姿を消していく一方で、浴衣の需要は健在である。その要因のひとつはコストダウンの成功にあるといわれる。

■福井県坂井市の浴衣帯メーカー、小杉織物は、同業他社が製造を中国に移管してコストダウンを図ろうとする中、国内生産体制を守り、台湾から白い糸を大量購入し、国内で染色する方法でコストダウンを図った。

■さらに、帯専用織機を台湾のメーカーと共同開発した。従来は汎用機をその都度調整しながら帯を織っていたが、専用機を開発したことで調整の手間が省け、故障が少なくなり、人手が省け、生産効率が高まった。

■同社はこれにより、浴衣帯の市場で90%を超えるシェアを獲得している。

取材先 小杉織物
取材 2018/06/12
掲載先 リーダーシップ2018/08
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki206.html

 


工場内に保管されている糸の包み(上)と帯専用高速織機
 
【090606】銅山経営を近代化する   


■江戸時代のはじめに発見され、住友家が開拓してきた別子銅山は、地中深く掘り進むにしたがって銅品位が低下した。その上に、坑道が長くなり、湧き出してくる水を汲み出さねばならなくなって、コストアップ、生産性の低下により、江戸時代の終わりには銅山経営はかなり厳しくなっていた。

■別子銅山支配人の広瀬宰平(18281914)は、明治新政府に住友家が銅山経営に当たることを認めさせるとともに、お雇い外国人から近代化採鉱法を学び、フランス人、ルイ・ラロックを雇い入れて、別子銅山の近代化計画「別子銅山目論見書」を作らせた。

■ルイ・ラロックはその計画の実施を自分に任せてもらえるように強く希望したが、広瀬はそれを断った。フランス人に任せれば、その後、フランス人抜きで経営ができなくなると考えたからだった。

■広瀬は住友の店員ら3人をフランスの鉱山学校に学ばせ、ラロックの「目論見書」を研究し、日本人の手で次のような近代化計画を実施に移した。
@鑿と鎚による掘鑿を、削岩機とダイナマイトに変えた。
A人力による運搬を牛車による運搬、さらに鉄道による運搬に変えた。
B幅6m高さ2.7mの巨大な斜坑を掘り、支坑道から集めた銅鉱石をこの斜坑に集めて、蒸気機関で稼働する巻上機によって運び出せるようにした。

■これらの近代化によって、江戸時代の終わりに年間500トンに満たなかった産銅量は、1900年に5000トンを超え、1918年には1万トンを超えた。

取材先 別子銅山記念館
取材 2019/12/17
掲載先 リーダーシップ 2020/02
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouk224

 


江戸時代の坑内作業(上、別子銅山図巻より、
別子銅山記念館提供)と銅鉱石運搬に使
われた蒸気機関車
 
【090607】工場で野菜をつくる    


尼崎市の鉄鋼メーカー、日亜鋼業の本社事務所に隣接する工場が移転し、空きスペースが生まれた。技術開発担当の佐藤雅文さんは、トップからその有効活用法の提案を命じられた。

■鉄鋼関連は既に成熟産業でニッチ市場を見つけるのは容易ではない。そこで、佐藤さんはアグリビジネスに着眼し、工業的手法で野菜を栽培する計画を立てた。

■露地物で3〜4カ月でかかる野菜が植物工場では1.5カ月で収獲できる。さらに6段積みラックで空間を立体利用すれば、単位面積当たりの生産性は露地物の15倍になる。

■植物工場は2008年5月から始動。レタス・ミズナ・チンゲンサイ・セロリ・ハーブ類などはスーパー、百貨店、ホテル、レストランなどに出荷されており、これらの野菜は2009年2月「メイドインアマガサキコンペ」でグランプリに選ばれた。



取材先 日亜物産
取材 2009/03/18
掲載 ポジティブ2009/06
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki086.html

  
植物工場の内部
 
 【090608】ジャストインタイム    


■豊田喜一郎翁が自動車の製造を始めたとき、先行するフォードやゼネラルモータースと自分たちの間にある生産力の大きな格差について考えた。彼等の自動車の作り方をそのまま後追いするだけでは、彼らに追いつくことは永久にできない。彼等がまだやっていない方法で徹底したコストダウンを図る必要があった。

■そこで、現在の豊田市トヨタ町に敷地面積60万坪、国内最大の自動車工場、挙母(ころも)工場を建設し、ここに鋳物工場、機械工場、プレス工場、熱処理工場、メッキ工場、塗装工場、組立工場を集中させ、仕掛品を運搬する無駄を省いた。

■工場内では「ジャストインタイム」を訴えた。見込み生産による作り過ぎを戒め、仕掛品在庫をなくし、必要な時に必要なだけつくる体制を築いた。これが後の「かんばん方式」に繋がっていった。 

参考文献 「世界の10人bX・豊田佐吉と喜一郎」(学研、2014P94野口均著「カイゼン魂・トヨタを創った男・豊田喜一郎」(ワック、2016P225

掲載先 リーダーシップ2022/02

探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki247.html

 
トヨタ自動車・拳母工場
 
  【090609】ストックボートをつくる    

■1914(大正3)年に勃発した第一次世界大戦は,日本に戦争景気をもたらし,川崎造船所には船の建造の依頼が国内外から集まった。

■船はそれまで受注生産だったが、松方幸次郎社長は商船を中心に建造方法を標準化し、見込み生産で「ストックボート」をつくり,建造中の船舶について注文を取るようになった。

■これにより1915(大正4)年から1926(大正15)年までに建造された106隻の商船の94%が見込み生産によるものだったという。

参考文献 「九十年の歩み・川崎重工業小史」(川崎重工業,1986)

掲載先 リーダーシップ 2023/02

探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki256.html

 
創業当時の川崎造船所
 
  【090610】千葉市沿岸部に一貫製鉄所をつくる    
■川崎製鉄の創業者、西山弥太郎は、川崎重工から製鉄部門を独立させ、千葉市沿岸部の60万坪の土地に高炉を築いて一貫製鉄所を建設した。

■港湾施設を備え、そこから鉄鉱石と石炭を輸入するとともに同じ港湾から出来上がった鉄鋼製品を搬出する千葉製鉄所の法式は、神戸、戸畑、和歌山、名古屋、堺…など、その後各地の沿岸部に建設された製鉄所のモデルとなり、日本の鉄の黄金時代を開いたと言われる。

取材 JFEスチール東日本製鉄所千葉地区見学センター 2023/01/25

掲載先 リーダーシップ 2023/02
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki257.html

 
  【090611】副産物の澱粉を綿布の糊付けに利用する   


小麦粉を原料にした「味の素」の製造工程では、製品の20倍に相当する澱粉が副生した。この澱粉は当初、樽に詰めて正麩屋に販売されていたが、「味の素」の販売量が増えるに従って、正麩屋だけではさばき切れなくなってきた。

2代鈴木三郎助とその子、3代三郎助は、それを綿布の糊付け用の澱粉粉として活用してもらえないかと考え、京阪神や中京地区の紡績会社に打診した。当時の紡績工場は小麦粉から蛋白質を発酵させ、これを捨て去って、残った澱粉を利用するという、味の素と全く逆のことをやっていたのである。

2人の提案に対して、澱粉の製造技術がすでに確立していた紡績工場では、澱粉の品質特性が変化することを嫌って、なかなか首を縦に振らなかった。そこで2人は、鐘淵紡績社の武藤山治専務(後の社長)を訪問して直接頼んでみた。武藤は紡績工場の技師を呼んで検討を命じ、味の素本舗からも技術担当が鐘紡の兵庫工場まで赴いて一緒に研究実験を重ねた。この結果、鐘紡は味の素の澱粉を採用することを決定。それ以後、味の素の製造原価は大幅に改善されることになった。

取材先 味の素川崎工場、参考文献 味の素社史(1971)ほか
取材 2024/01/27
掲載 リーダーシップ2024/03
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki262.html

 
 
1916年当時の味の素製造工場
(うまみ体験館の展示パネルから)
▲このページトップへ