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ネット版 改善改革探訪記 101 | ![]() |
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囚人たちが切り拓いた道 | ||
■明治の初め、ロシアが千島伝いに南下政策を進め北海道をうかがっていた。これに対抗するために、明治政府は北海道の開拓を急いだ。旭川に集結する屯田兵をオホーツク海沿岸部にいつでも移動できるようにするために計画されたのが「中央道路」だった。 ■「その開削に囚人を利用すべき」という太政官書記官・金子堅太郎の献策によって、明治23年、オホーツク海に面した網走の地に網走外役所(後の網走刑務所)が建てられ、ここに囚人が集められた。 ■旭川までの150キロを13区に分け、移動監獄を設け、完成すれば次の区間に移動するという方法で、網走から1区間に200人の囚人が投入された。彼らは逃亡防止のために2人ずつ鎖でつながれ、看守に見張られながら、原始林を切り開いた。貫通までの6カ月間に1200人を投入。200人以上が犠牲になったという。 ■「もともと彼らは暴戻の悪徒であって、尋常の工夫では耐えられぬ苦役に充て、これにより斃れても、監獄費の支出が減るわけで、万やむを得ざる攻略なり」と金子は言ったという。人は人に対してここまで非情になれるものかと驚愕させられる。平時の生身の人間には到底無理である。だが、国家のため、組織のためという大義名分の下では、人は人としての感情に簡単に蓋をしてしまうものらしい。明治27年になって帝国議会はようやく「囚人を死に等しい労働に使役することは二重の刑罰を科すものである」として囚人を使った土木工事を禁止した。 |
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博物館網走監獄の重い石を持ち上げ運ぶ囚人塑像 |