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ネット版 改善改革探訪記 №242
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地下浪人から身を起こし海運業界に君臨した三菱グループの創始者ut

 岩崎弥太郎生家探訪記


三菱グループの創始者、岩崎弥太郎翁(1835-1885)は、士族ではあったが身分の低い地下浪人の出身だった。

幼い頃から、歴史、易学、儒学などを学んだ。19歳で江戸に上り、安積艮斎の下で学んでいたとき、父が酒席での口論の末、袋叩きに遭い半死半生の状態にあると聞いて、土佐に帰国した。奉行所に訴え出たが、取り合ってもらえず、そのことを批判したために彼自身が獄に繋がれ、その後、高知郊外に流されて、そこで吉田東洋の門下となり、後藤象二郎らの知遇を得た。

吉田東洋は弥太郎を高く評価し、彼自身が後に藩政に復帰した時、弥太郎を召し抱え、長崎に派遣。土佐の産物を外国へ輸出するための市場調査を命じた。このとき、弥太郎は公金を使い込んで罷免されたが、数年後、後藤象二郎が藩政の実験を握ると再び召し出され、藩の長崎出張所「土佐商会」の立て直しを命じられた。

「土佐商会」は、坂本龍馬が興した「亀山社中」から「海援隊」と名前を変えた貿易と海運の会社を引き受けた。「海援隊」は明治維新後解散。その後改めて「九十九商会」という会社を立ち上げ、廃藩置県で土佐藩が消滅すると、この会社は「三川商会」「三菱商会」と名前を変え、やがて弥太郎が経営を引き受けることになった。

「三菱」は外国や国内の海運会社との顧客争奪競争を制し、台湾征討や西南戦争での政府の輸送を一手に引き受け、その結果、日本の汽船の大半が三菱の所有となった。弥太郎はさらに高島炭鉱、長崎製鉄所なども引き受けて後の三菱グループの基礎を築いた。

渋沢栄一が株式会社制度による民主的な経営を主張したのに対して、弥太郎は経営者の独裁を主張。「経営者の仕事は専門家たちを採用して、それぞれの分野で気持ちよく働いてもらうことである。私はそのお膳立て役に徹する」と語ったと言われる。

高知県安芸市の岩崎弥太郎生家を訪ね、ボランティアガイドの小松正文さん、岩崎弥太郎生家管理人の弘田富重夫妻に彌太郎翁の生涯を解説していただいた。

●本文 → iwasaki-yataro.pdf

●岩崎弥太郎生家のURL → https://www.city.aki.kochi.jp/life/dtl.php?hdnKey=45

●掲載先 → リーダーシップ 2021年8月号
(発行元・日本監督士協会のURL:
http://www.kantokushi.or.jp/


生家前の岩崎弥太郎銅像写真クリックで本文表示。


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