仕事の事典  》 提案の心と創造の心 第7章
 
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i  … 揖斐昇 著
提案の心と創造の心


―トヨタ創意くふう活動と私の15年

書籍版:1987年8月25日 創意社刊
 
 第7章 創造の心を伝える人々      
           このページの掲載項目        .事実を押さえれば解決の道が開ける
幼稚園の遠足ではあるまいし
.ほめられた話
.ムダになった講演原稿
突然の表彰式
大野さんとの再会
 
1. 事実を押さえれば解決の道が開ける

創意くふう委員会事務局というポストには全社から多くの情報が集まってきます。そして、創意くふうにかけた多くの人たちとの出会いを作ってくれるポストであります。
なかでも事務局に着任した頃の私に「提案」という考え方を叩き込んでくれたのは、その当時の上司で生産技術企画室で保全グループの課長と創意くふう委員会事務局を兼ねておられ、現在国際研究所の理事として活躍されている山本巌氏でした。創意くふうのほかPM(設備保全)の分野でも活躍された方でヨーロッパのPM事情を視察されたとき向うでトヨタの創意くふう活動を紹介され、その結果、非常に関心を呼んだと聞いています。下欄の「提案制度を考える」はその後の事務局の指針になった考え方ですが、ここに山本さんの思想が汲み取れると思います。
山本さんから教わったのは「まず事実を確かめる」ということでした。徹底して問題や意見を集め、KJ法を駆使して問題を整理する巧みさと情熱には余人をもって代え難いものがあり、いつも感心させられました。
1975年の年度表彰で金賞30人のうち28人がひとつの職場から出たことがありました。「これは問題じゃないか」当時の副委員長がそう指摘されました。しかし、基準を当てはめていくと確かにそういう結果になるのです。それを覆すには事務局としても重大な決心がいります。
「まず、事実を確かめてみることだ」 どうしたものかと迷っていると、山本さんはそう言われました。負荷のかかる作業ではありましたが、その指示によって私は受賞者の提案、数千件を全部調べたのです。その結果やはり審査の不備による問題提案がいくつか出てきました。だからといって28人の受賞を取り消したら混乱が起きます。しかし、そのまま目をつぶることもできません。
山本さんの言われるのは「受賞できなかった職場の提案もランダムに同数抜き取りそれを調べてみよ」ということでした。やはり同じように審査不備による問題が出てきました。この事実を各委員に見てもらい、28人の受賞はそのままにして、職場が片寄ったことは金賞受賞枠を30人から40人に増やすことでバランスをとって解決したのです。
どんな難問でも事実を押えることで解決の途が開けることをこのとき教えられました。提案の質的レベルに問題があるというので万件の提案に目
を通したという先(第3章)のエピソードは、山本さんのやり方を踏襲したものです。量的指向から質的指向へというその後のトヨタの制度運営の方針は「事実をつかめ」という山本さんの教えに沿って出てきたものと言ってよいと思います。

 
 
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2.幼稚園の遠足ではあるまいし  

私にとってもう人の忘れられない出会いは、大野耐一さんという「トヨタ生産方式」を編み出された改善の神様みたいな人のことです。
私が仕えた最初の委員長、豊田章一郎氏は1973年に専務から副社長に昇進され、副社長になると創意くふう委員長を降りるという慣習に従って新しく大野耐一専務が創意くふう委員長になられました。そして、そのときから事務局は特許管理部を離れ、生産技術企画室に籍を移すことになったわけです。 
大野さんは私にとっては神経の休まるときのない厳しい方でした。この方と出会ってからは、最初提案がいやだいやだと言っていたときの苦しさが自分人の小さな悩みに過ぎないと思い知らされました。しょげていたときには仕事を一歩離れさえすれば昼飯はおいしかったのですが、大野さんが委員長になられてからはしばしば胃の痛くなるような思いをしました。

どぎもを抜かれたのは、例の優秀提案者の工場見学と温泉一泊旅行の1973年度の企画書を出したときのことです。「お前は何を考えているのか!」と机を両手で叩きつけて大喝されました。そう言われても分からなくてポカンと突っ立ていると、「幼稚園の遠足ではあるまいし、何たることだ!」と畳みかけるように言われます。
しかし、見学旅行は創意くふう提案制度が発足して以来20年間続いてきた恒例行事で、優秀提案者が最も楽しみにしている企画です。『限られた費用で提案者の会社への貢献をたたえるのがなぜ悪いのか?』 と心のなかでそうつぶやいてしまいましたが、頑固一徹の明治の気骨の前では口答えなど思いもよりません。

 

大野さんは見学旅行の由来やみんながそれを楽しみにしていることなど百も承知で言っておられるのです。それを百も承知で中止せよと言われるのはなぜか。怒鳴られながら、私は必死になって頭を巡らせて考えました。
よくよく真意を汲み取ると、ちょうどそのとき高度成長の名残りでディーラーや関連会社から応援を求めていたくらい生産計画がびっしりと余裕なく組まれていたのです。創意くふうは個人競争であるとともに職場間競争でもあるので、一生懸命やった職場からは受賞者が6〜7人も出る。彼らが一斉に職場を離れるとラインが止まってしまう。だから、
「費用がかかってもよいから工場見学をやめて、そのかわりお前がチエを出せ」と言われているのだと気が付きました。
「わかりました。チエを出します」そう言って引き下がって、そのとき考えたのがメタルです。東京のデザイナーに頼んでトヨタ自動車工業を創設された豊田喜一郎氏の胸像をレリーフで入れました。大野さんにそれを持っていくと「純金でやれ」と言われます。オリンピックのメタルのような大きさのものをまさかと思ってじっと顔を見つめていると「俺がもらうんなら純金だが…」とニヤッと笑われるのです。
純金だとたとえ1個30万円かけても、刻んだ文字が虫眼鏡で見ないと見えないような小さなものになってしまう。そんなに費用をかけることもできないし、それよりも現場の人たちはやはり工場長から紅白のリボンのついたずっしりと重みのあるメタルを首から下げてもらって「頑張ったな」と握手で激励されてこそ意欲が涌きます。そのように説明すると「それでよい」と言われ、結局、銅製のメタルに金メッキしたものを贈ることにしました。
表彰式だけでは寂しいので勤務時間終了後に各工場で工場長と部課長を集めて、優秀提案者を囲んでにぎやかに立食パーティーを開きました。夜勤者が含まれているからアルコールはダメだということにしていたのですが、ある工場では「その晩の夜勤者は休んでいいから生ビールを出そう」と工場長が言われ、結局ビールパーティになったことを覚えています。
以来この年間表彰のやり方が今日までずっと続いています。

 
 
3.ほめられた話

こんなこともありました。年度表彰で、金・銀・銅のいずれかの賞を年連続して受けた人には「カ年連続表彰」というのを贈りますが、その副賞として既成品の七宝焼の額皿を贈っていました。既成品ですから、たまに百貨店や生協などで同じものを売っていることがあります。それをみて『ふ〜ん、ボクがこの間もらったのは万円だったのか』などと分かってしまうのは面白くないので、陶芸家に頼んで額皿を作ってもらうことにしました。
その下絵を見せると「これはまるで魚すきの皿だな。こんなものもらって現場の人たちは喜ぶだろうか」と大野さんは言われます。それでまた考え直して悩みに悩んでいるとき、ロダンの『考える人』の姿が浮びあがりました。陶器にペンキ塗りした『考える人』はどこでもよく売っているのですが、ずっしりと重い本物のブロンズで『考える人』をつくって、台座に独自の文字を刻むと値打ちが出るだろう。「これだ!」と思って、これも彫刻の専門家に頼んで型を作ってもらいました。

このときは「良いチエを出したな」とほめられました。ふだん厳しい人であっただけに誉められたときは飛び上るほどうれしく、その感激がいつまでも残りました。

 
 
4.ムダになった講演原稿  

もうひとつ、大野さんから叱られた思い出があります。1977年に日本提案活動協会の名古屋での集会のために「経営と提案活動」という演題で講演をおねがいしたときのことでした「カンバン方式の話なら手慣れておられるから原稿はいらないですよ」と秘書から言われたのですが、「いや念のために作っておいたほうがいいよ」と武本さんという新しく着任された部長に指示されて私が原稿を書くことになりました。20日間他にほとんど何もしないで必死になってフォ−ドから提案を導入しアレンジしてきたいきさつなどを原稿にまとめました。
ところが、やっとの思いで書き上げて大野さんのところへ持っていったら、全然見もしないで、「こんなカッコのいいことは俺は喋らん!」とバ−ンと叩き付けられたのです。20日間、書いては直し書いては直ししてやっと作り上げたのにこの有様です。私はカーッとなって自分のムダ働きの原因を作った部長をさんざんに恨みました。
講演会では、大野さんは結局、封筒の裏にちょこちょこと行書いたメモをもとにそれだけで時間喋られ、さすがに聴衆をうならせて終わりました。
舞台の袖でこれを聞いていたときほど情けない思いをしたことはありません。事務の遅れを工場から突き上げられながら、20日間もかけた原稿が一顧だにされなかったのですから…。
しかし、そのときの部長の指示への腹立たしい気持はその後だんだんおさまってきて、あれはあれで仕方がなかったのだと思えるようになりました。武本部長にとっては初めてのことで、部長の立場として「念のため」を考えておくのはムリからぬことだったといえるかも知れません。

 
 
5.突然の表彰式  

このときの武本部長はその後取締役となられ、田原工場の工場長となられましたが、次のような後日談があります。
1981年、創意くふうの30周年記念行事の一環として創意くふう功労者を表彰するという企画があり、そのために現場の提案者を育ててきた優秀な管理監督者を人選して創意くふう委員会に上申した時のことでした。そのとき全工場長、役員が居並ぶ中で、ある工場長がちらっと私の顔を見ながらこう言われたのです。「事務局からもを功労者を選んではどうでしょうか…」

その工場長は、かって上郷工場でGIクラブ結成のセレモニーをやった雪の晩、わざわざその場に顔を出してくださり「キミもご苦労さんだねえ」と声をかけてくださった岡野部長で、現在は大豊工業の社長となっておられる方でした。
事務局とは私のことにほかなりません。私は一瞬ドキッとしました。さらにそのとき、かっての上司、私がその指示によって大野さんのために使われなかった原稿を書いた武本取締役が、口を添えてくださったのです。

このときの武本部長はその後取締役となられ、田原工場の工場長となられましたが、次のような後日談があります。「そうですね。長年事務局としていろいろとチエを出してくれた揖斐クンも選んではどうでしょうか」このときの委員長・森田俊夫専務が「うむ」とうなずかれたのを覚えています。
「ありがとうございます。しかし、私が雛段に上ったらセレモニーができません」自分の名前を上げてもらえた嬉しさでいっぱいになりながら私はそう言ったものでした。
創意くふう委員会が委員会のスタッフである事務局員を表彰するのは、お手盛りと受けとられかねず、他の従業員の手前、差し障りのあることに違いありません。しかし、長年仕えてきた委員会の面々がそのように見てくださっていたというだけで私は天にも上る思いがしました。

「事務局という立場だから正式の場で表彰するのはムリだけれども、人の取締役からキミの名前があがって、委員長もうなずいておられたのだから、ボトル本か名古屋のクラブにご招待くらいはまず間違いないよ」 あとで部長からそう言われて、私はボトル本か名古屋のクラブをひそかに楽しみにしていましたが、結末はもっと意外でした。
ある日の創意くふう委員会の最後に突然部長が立ち上って、「ただいまから表彰式をします」といわれたのです。そんな計画は全く知らされておらず、びっくりする私が前に押しやられ、「事務局としての長年創意くふうの発展に陰の力となって尽くされた功績をたたえます」という賞状が読み上げられて、森田俊夫創意くふう委員長から感謝状と金時計をいただきました。それは突然に私を襲った最高に嬉しいできごとでした。そして、そのきっかけを作ってくれたのがこの武本部長だったのです。

 
 
6.大野さんとの再会  

大野さんは1975年に専務から副社長に昇進され、昇進後もしばらくそのままで委員長を務められましたが、1977年に創意くふう委員長を退いて、代って森田俊夫専務が委員長になられました。
その後大野さんは、トヨタ自動車を離れられて、現在はトヨタグループの豊田紡織、豊田合成の相談役として両社の経営に携わる一方、トヨタグループだけでなくあらゆる産業分野でトヨタ生産方式を指導するために国内、国外を縦横に駆け巡って活躍されておられます。
あれから10年たった去年の11月、大阪万博ホールで開かれる日本HR協会の提案集会のために再び講演をお願いしたことがあります。大野さんは講演の時間前に来られて、控室であのときと同じように封筒の上にコチョコチョとメモされていました。わたしが挨拶しますと手を止めて「キミは長いことやっているね」とおっしゃいました。
「その節はいろいろご指導いただいて感謝しています。けれども、ひとつ教えられるたびに身の縮む思いがしました。つらかったです」と言いますと「俺がそんなにしごいたか?」とけげんな顔で言われます。厳しくしたとか苦しめたという気が全然ないのです。だからあんなに単刀直入に言えるのかも知れません。いずれにせよ、私にとって生涯忘れられない最も強烈な印象を残された委員長でありました。

 
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