絵で見る創意くふう事典  》 第14章 社会  》 D逆境をくぐり抜けて事業創出する
 
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社会‐1405 D逆境をくぐりぬけて事業創出する
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 このページの掲載事例→             ●140501 ライトバンで帯を売りに行き商売の厳しさを知る  
●140502 困難を乗り越えて入浴サービスの仕事と出会う
●140503 突然に主婦から社長に就任。下請けから脱出しグローバル企業に導く 
●140504 反対運動の中、里山を再生し、環境問題への理解を深める  
●140505 西洋鍛冶屋をめざし、貧困からの脱出を図る 
●140506 逆境の中から生まれたシャープペンシルとラジオ 
 
【140501】 ライトバンで帯を売りに行き商売の厳しさを知る  


小杉織物社長の小杉秀則さんは、祖父の代から続いた機屋の家業が傾いたとき、大学を中退して父を助けることを決めた。

■その手はじめに、父はライトバンに帯を積み込み「この帯を売ってこい。全部売れるまで帰ってくるな」と命じた。北陸一体の旅館と民宿を何日もかけて11軒くまなく回ったが、まったく売れず、売れたのは父の知り合いだった民宿のおばさんが、赤い帯2本を500円で買ってくれただけだった。この苦い経験が商いの厳しさとそれに耐える強い心を教えてくれた。

■ある商社からアメリカ向けのファッションベルトをつくってくれないかという話がもたらされた。同業他社は見向きもしなかったが、小杉さんはそれを引き受けることを決め、それがアメリカだけでなくヨーロッパでも大いに売れた。

■この仕事の中で和洋折衷のデザインを創出しそれを蓄積したことが、後の浴衣ブームの中で若い人たちの心をとらえ、同社はいま浴衣帯のトップメーカの地位を築いている。

取材先 小杉織物
取材 2018/06/12
掲載先 リーダーシップ2018/08
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki206.html

 
ショールームのつくり帯
 
【140502】 困難を乗り越えて入浴サービスの仕事と出会う  

■福祉の里の矢吹孝雄社長は1983年に入浴サービスを始めた。この仕事と出会うまでに筆舌に尽くしがたい困難な体験があった。

■困難の起源は義兄が始めた会社の倒産だった。債権者から逃れるために義兄は姿を隠し、義兄の下で働いていた矢吹さんも債権者から追われるようになり、故郷から遠く離れた名古屋で身元を隠してバキュームカーに乗って働いた。

■娘が学齢期に達して住民票を移したときに債権者がそれを知って訪ねてきた。そのとき、債権の大半は両親が肩代わりしてくれていたことがわかり、矢吹さんはようやく自分の働きの中から計画的に返済できるようになった。

■その後、故郷に帰って、余命いくばくもない父を、弟と2人で風呂に入れたことがあった。その時、父が大層喜んでくれたことがきっかけで、入浴サービスこそ自分の天職だと思い定め、入浴サービスの会社を興した。

■介護保険制度が始まって事業範囲が拡がり、現在は、入浴サービスに加えて、在宅介護サービス、デイサービス、寝具乾燥サービス…など、多角的に事業展開している。

取材先 福祉の里
取材 2018/07/12
掲載先 リーダーシップ2018/09
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki207.html

 
プラスチック製の浴槽を運ぶ
 
【140503】 突然に主婦から社長に就任。下請けから脱出し、グローバル企業に導く  


■主婦だった藤浪芳子さんは、経営のほとんどすべてを担っていた夫の突然の出奔によって、急遽昭和精機の2代目社長を引き継いだ。同社は大手K社の機械加工を下請けしながら、プレス機の安全装置と空圧回転継手を製造していた。

■社員や税理士に教わりながらそれまで通りの仕事をなんとか続けるうちに、この会社が創業者である藤浪さんの父と元営業マンが設立した販売代理店のS社から言われるままに製造していて、利益のほとんどがS社の欲しいままになっていることが分かった。

■藤浪さんはS社との決別を決意。K社に直接取引を申し入れた。「あなたは主婦の顔をしている。あなたに社長が務まるとは思えない。悪いことは言わないから、S社との関係を続けなさい」K社の資材部門責任者はそう言ったが、数カ月にわたって毎日通い詰めた藤浪さんの熱意に折れ、直接取引に応じてくれるようになった。

■経営者はお客様を納得させつつ利益を生み出すことに責任を負っている。その責任を果たすために藤浪さんは必死になって勉強し、やがて技術者たちと議論を戦わせられるようになった。

■新製品の開発力も生まれ、さらに、自ら海外に赴いて海外の取引先も開拓した。現在、同社製品の一部は海外現地法人に製造を委託しており、同社製品の6割は海外で販売されている。

取材先 昭和精機
取材 2018/09/27
掲載先 リーダーシップ2018/11

探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki209.html

 
昭和精機の製品
 
【140504】 反対運動の中、里山を再生し、環境問題への理解を深める   


■埼玉県のくぬぎの森の石坂産業は、産廃の焼却炉によるダイオキシン発生の元凶とされ、地元住民から「出ていけ」という反対運動が起こり、得意先もどんどん離れていった。

■そんな中で石坂典子さんは、父親で社長の石坂好男氏が、産廃を海に埋め立てることに疑問を感じ、自らリサイクル工場を作って、子どもに次がせたかったというのを聞き、「それなら私に社長をやらせてください」と言った。

■石坂さんは父とともに産廃の海への投棄も焼却も全廃し、完全にリサイクルさせる工場を作り上げた。

■それでも地域住民の中に同社への反感はなくならなかった。産廃はみんなが捨てたもの。その処理の行方を知らないまま、人々は反対を唱えている。それなら産廃事業者の側からもっと積極的に発信すべきと考えるようになり、リサイクル工場の見学路を設置、工場周辺の5Sを徹底、荒れ放題だった周辺のくぬぎの森を整備し、見学に訪れた人たちが散策できる里山を復活させた。

■この取り組みが徐々に評価されるようになり、今日では同社を指名するハウスメーカーや解体事業者が増え続けている。

取材先 石坂産業

取材 2020/02/05

掲載先 リーダーシップ 2020/04

探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki226.html

 




上から、産廃のリサイクル工場、見学する小学生たち、
見学者に解放されているくぬぎの森散策路のミニSL。
 
 【140505】 西洋鍛冶屋をめざし貧困からの脱出を
図る
 
 


■世界120カ国に向けて水環境事業と機械関連事業を展開するクボタの創業者、久保田権四郎(生名、大出権四郎)翁は、年貢米が金納に変わったことで幼児期に両親の困窮を目の当たりにした。

■秋祭りに子供に持たせる小銭がなく、母が畳に突っ伏して泣いている姿が、その後の自分を作ってくれたのだと権四郎は後に語っている。

■生家のあった因島の丘から海を行く蒸気船を眺めて、自分は西洋鍛冶屋になって両親をラクにさせたいと誓いを立て、14歳で大阪に出て鍛冶屋をめざし、19歳で「大出鋳物」を立ち上げた。

■大出鋳物は後に久保田鉄工所と名前を変え、全国の60%のシェアを持つ鋳鉄管メーカーとなったことが、今日のクボタに繋がっている。


取材先 
クボタ

参考文献 沢井実著「日本の企業家4・久保田権四郎」
PHP研究所 2017

取材 2021/10/27
掲載先 リーダーシップ2021/12
探訪記 
http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki245.html

 
18才当時の大出権四郎(右端)と家族
 
 【140506】 逆境の中から生まれたシャープペンシルとラジオ   

■シャープ創業者の早川徳次翁は、生れてすぐ養子に出され、過酷な少年時代を送った。十分な食事を与えられなかった上にマッチのレッテル張りの内職を強いられ、小学校も十分に行かせてもらえなかった。

■子どもなりに過酷な仕事を少しでも早くラクにする工夫を考えたという。その境遇に同情し励ましてくれる人も少なくなかったが、そこから脱出できたのは8歳で丁稚奉公に出てからだった。

■丁稚奉公の中で、錺(かざり)職人としての技能を身に着け、19歳でベルトのバックル「徳尾錠」を発明して独立。翌年、シャープペンシルを発明して事業は大きく発展した。

■しかし、関東大震災で家族も工場も失い、さらにシャープペンシルの事業も特許権も失うことになった。

■すべてを失って東京から大阪に移り、ここで新しい会社(後のシャープ)を立ち上げた。そして、国産第1号のラジオ、テレビ、電子レンジ、電卓などを生み出し、総合電機メーカーとして飛躍する。

■少年時代、過酷な環境の中で培われた強靭な精神力がなければ、生まれることのなかった偉業と言ってよい。


取材協力:シャープミュージアム

取材:2022/04/27

探訪記:http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki250.html


 
 


錺職人見習い時代の早川徳次翁
(上写真前列右端、1906)と
鉱石ラジオを研究する徳次翁(下写真右)
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