仕事の事典  》 提案の心と創造の心 第1章
 
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i  … 揖斐昇 著
提案の心と創造の心


―トヨタ創意くふう活動と私の15年

書籍版:1987年8月25日 創意社刊
 
 第1章 トヨタ創意くふう制度の誕生      
              このページの掲載項目   .トヨタとフォード・サジェッション・システムとの出会い
若い作業者に働きがいを持たせるために
創意くふうが軌道にのるための条件
松下電器提案制度を見学
 
1. トヨタとフォード・サジェッション・システムとの出会い

私と提案との出会いはこのように惨憺たるものでしたが、トヨタ自動車にとっての提案制度との出会いは、それよりも20年あまり前、戦後間もない1951年のことになります。乗用車よりもトラックを中心に製造していた時代で、この年、講和条約が結ばれ、日本経済は朝鮮特需によって長いトンネルをくぐり抜け活況を呈し始めた時に当ります。

その前年の1950年に労働争議があって、当時の7〜8千名の社員のうち2000名を人員整理し、給料の遅配、欠配等倒産寸前の事態を経験した直後のことでした。後に社長、会長となられた当時の豊田英二専務と、副社長を経て会長になられた斎藤尚一常務が、労使紛争から立ち直り、会社の再建を期してアメリカのフォード社を訪問されました。
お2人はフォードの近代的経営手法を直接見聞されたのですが、そのときたまたまルージュ工場のサジェスションボックスが目にとまり、サジェスションシステムのマニュアル、審査基準、ポスターなどを持ち帰ったのが、トヨタと提案制度との出会いだったそうです。さらにさかのぼれば、トヨタ自動車の前身である豊田自動織機製作所は、若い頃創意くふうに明け暮れ、日本の発明家の十指に数えられる豊田佐吉という創設者を持っています。この佐吉翁の遺訓に「研究と創造に心をいたし、つねに時流に先んずべし」というのがありますが、その伝統が1951年6月の提案制度のスタートに際して思い起こされ、ひとにぎりの専門技術者による研究と創造だけではなく、広く従業員のひとりひとりに創意とくふうを促すという理想がこのとき確認されたわけです。

記録によりますと最初の1年間は、ものめずらしさも手伝って5,392人で789件の提案が出たそうです。月に6070件。しかし、2〜3年たつとだんだん低調になりついには月に12件にまで落ち込んでいます。
 これではいけないというので、
・かた苦しい「創意工夫」を「創意くふう」に変え、
・提案箱を人通りの多いタイムカード場に設置し、
・前を透明にして「提案が入っているな」と確かめられるようにし、
・テーマを設けて特別募集したり、
・あるいは社員から募集して「よい品、よい考」というわかりやすい標語を制定する… など、あの手この手を試みて月に1,000件、2,000件へと息を吹き返していきました。

 
 
2.若い作業者に働きがいを持たせるために  

世間的に見ても日本の主要企業の提案制度のスタートはこの頃、1950年前後に集中しています。朝鮮戦争の兵站基地となった日本の生産性を向上させるために米軍が日本の産業界にTWIを教え、アメリカ流のサジェッション・システムを導入させて従業員の創意くふうを吸収させようとしたからだと言われます。
ちなみに各社の提案制度がスタートした時期を調べてみますと、次のとおりです。

 1946年 東芝「改善提案制度」発足
 1948年 三菱電機「改善提案制度」発足
 1949年 住友金属工業「有功賞制度」発足
 1950年 松下電器「提案報奨規程」発足
 1951年 トヨタ自動車「創意くふう提案制度」発足
 1952年 武田薬品工業、キヤノンで「提案制度」発足
 1953年 いすゞ自動車、富士電機「提案制度」発足
 1954年 久保田鉄工、三菱重工、日立造船、東洋工業、三洋電機などで「提案制度」発足
 1955年 本田技研、ミノルタカメラ「提案制度」発足
いずれもQCサークル活動よりも10年以上早く、日本のボトムアップ運動は、まず個人の創造性を高めることから入って、その後QCサークル活動などのグループ活動を取り入れていったといってよいでしょう。
 しかし、この当時はまだ日本の産業力は弱く、働く人々の意識もそんなに高いものではありませんでした。現場の人たちは「創意」とか「くふう」とか「提案」といったものを「発明考案」と同じように縁遠いものと感じていたようであり、従って提案はなかなか自分たちのものになり切らず、導入してから20年ほどのあゆみは遅々としたものでした。
 トヨタ自動車の年々の件数グラフが長い低迷期を脱してはっきりと上を向き出したのは私が事務局を担当する1〜2年前、19701971年からのことです。
 高度成長期に、トヨタは高校出の優秀な人たちをブルーカラーとしてどんどん採用しました。しかし、その人たちにとって同じ型の、同じ色の車がどんどん流れる中で、プレス機のボタンを押すだけ、ボルトネジを回すだけ、ホイルキャップをはめるだけ、という仕事はいたたまれないほど単調で、したがって定着もよくありませんでした。
 若い人たちは車の免許を取ってやっと仕事を覚えたと思ったら会社をやめて町の整備工場に移っていきました。私が紹介してトヨタに入った何人かも同じ道をたどったものでした。 会社は少しでも職場の中に人間らしさを取り戻そうと職場をカラフルにペンキ塗りして、休憩場を設け、コ−ヒ−飲み場を作って音楽を流すというようなことを欧米の工場を真似てやりましたが、周りを飾るだけでは人間のやる気を盛り上げるのに十分ではありません。
 そこで、考えて仕事をすることによって意欲を持たせようとトップは考えたわけです。そして、そのためのシステムとして創意くふう提案制度に力を入れていこうとしたわけです。

 
 
 
3.創意くふうが軌道に乗るための条件

創意くふう提案の推移グラフは19701971年からはっきりとした上昇カーブを描いています。このことにはいくつかの原因が考えられると思います。
 ひとつはちょうどこの頃「トヨタ生産方式」の名のもとに集大成されたトヨタ流の生産の仕組みが確立され、その改善哲学が社内の隅々にまで徹底されてきたことがあげられます。カンバンやアンドンなどによってだれの目にも問題が見えるようになり、同時に、たとえば、
・必要なものを必要な時に必要な量だけ供給する(ジャスト・ イン・タイム)
・何が正常で何が異常かを目で見てわかるようにする(目で見る管理)
・なぜなぜなぜを5回くり返して原因のむこうに隠れている真因をつかむ
・作りすぎのムダ、手待ちのムダ、運搬のムダ、加工のムダ、 在庫のムダ、動作のムダ、不良品を作るムダ…をしっかり認識し撲滅する
・単能工から多能工化をめざす
・ロットを小さく、段取り替えをすみやかに行なう
 といったものの見方、考え方が浸透して、現場の作業者にもムダ排除の意識が高まっていったのです。
 さらに、QCの方では1965年にデミング賞をとって、世間の注目を浴びていました。サークル活動は職場のコミュニケーションを活発化させ、活動の中で使われるさまざまな管理改善手法は作業者に単なる思いつきではない科学的で分析的な思考法を定着させ始めていました。
 創意くふうによって若い作業者に働きがいを与えていこうとするトップのねらいは、トヨタ生産方式の完成とQCサークル活動の定着によってこのときすでに十分可能な土壌をつくっていたのだと思います。
 さらにそれを受けて件数を伸ばし、現場に密着した制度運営を可能にするような抜本的な制度改革が、1971年に行なわれました。
 すなわち、それまで各工場、各職種から集められた専門委員によって行なわれていた中央での段階審査を、段階審査に改め、第次審査は現場の工長レベルまで降ろしたわけです。 それによって、提案の受付から審査結果が確定するまでの時間が大幅に縮まり、大量の提案を短時間に処理することができるようになりました。また、現場の事情に精通した職長クラスが第次審査に携わることにより、提案者に密着した配慮ができるようになったわけです。
 この改訂によって創意くふう提案制度は大量提案時代にふさわしいものへと姿を変えたわけですが、このときの制度のアウトラインは次の通りです。

提案組織
 提案組織は職制組織と同じで、各階層別に次のつの委員会を構成する。つの委員会は、それぞれの範囲の活動を運営推進し、また提案を審査する。
・本委員会(委員長:社長から委嘱された役員)
・工場(部門)別委員会(委員長:工場長、部門長または担当役員) 
・職場別分科会(担当委員:部長 委員:課長 幹事:工長)

 
 

提案のルート
 提案は次のルートで流れ、処理される。
@提案者は提案を提案箱に入れるか、または各工場の創意くふう事務局に提出する。
A提出された提案は毎月日各工場の事務局に集められ、創意くふう元帳に記録される。
B分科会は提案内容について関係部署と協議のうえ、毎月20日までに審査を行なう。賞金5,000円以下の提案はここでの審査が決定となる。
C分科会で賞金6,000円以上と審査された提案は各工場(部門)別委員会の審査を受ける。賞金1万5,000円以下のものはここでの審査結果が決定となる。
D2万円以上の提案は毎月月末に創意くふう委員会においてさらにつっこんだ専門的な審査をおこなう。
E審査の結果は審査結果一覧表、トヨタ新聞などで広く社内に公表される。提案者にはさらに評価の決まったいきさつを審査結果所見欄で説明する。
F審査により採用と決まったものは職制によって実施に移される。参考と決まったものはさらに職制で改良され、その考え方が生かされる。
G提案が審査された後、より以上の効果が上がっていると認められたものはさらに追加表彰を行なう。
H優秀な提案に対しては月度表彰、優秀提案者には年度表彰を行なう。
  

 
 
 
 
4.松下電器提案制度を見学  

私が事務局を引継いだ当時のトヨタ自動車は、トヨタ生産方式やTQCでは世間の圧倒的な注目を集めていましたが、その影響はまだ十分に創意くふう活動にまで浸透しておらず、提案は世間的に認められるレベルには程遠いところにありました。むしろ来たるべき大量提案時代に備えてこれまで述べたような条件を整えつつあったそのまっ只中でした。
日本HR協会が発表した1971年度の提案全国統計によりますと、この年、松下電器の提案件数83万件、住友金属が41万件、神戸製鋼所14万件。これに対してトヨタは松下電器の10分の1の万件に過ぎません。
 このことを雑誌で見られた豊田章一郎創意くふう委員長から「トヨタが万件というのは少な過ぎるのではないか。もっとなんとかならないか」と指摘されたものでした。
事務局である私は何もわからないままに提案の専門家の話を聞きに東京、大阪へと出掛け、提案活動の推進のためにはどんなことに留意したらよいか、他社はどのようにして提案を推進しているのかを調べて回りました。越智養治氏、児玉龍介氏、日立工機の遠藤芳男氏、日本ピストンリングの横溝清氏らとはじめてお会いしたのはこの頃のことです。

 

提案日本一の松下電器さんにも行って、奈良県にある洗濯機事業部を見学させていただいたことがあります。 松下さんはさすがに聞きしに勝るものすごさでした。工場は提案、提案、提案…で埋めつくされ、職場からロッカーから食堂まで、富士山や地球の絵の個人別件数グラフがあって、『みんなで頑張って提案しよう!』というポスターが張り巡らされていました。
「ここでの提案活動は経営参加の有力な手段と考えられており松下幸之助氏の『衆知を集めた全員経営』の精神が脈々と流れている素晴らしい制度である」と、帰ってきてから当たり障りのないきれいごとのレポ−トを書いたのですが、実はその時の私の正直な感想は全員経営の徹底ぶりに内心で反発を感じていたのです。

パートさんまで含めてここで働くひとり1人が1年間で何十件もの提案を出すのだ、と案内に立った方は誇らしげに言われました。しかし、本当のところみなさんはどんな気持で提案するのでしょう。あの個人別に表示された赤いマジックの目標管理グラフを見ていたら、私自身アイデアを出せ出せと追い立てられているような気がしてなりませんでした。もし、自分があのグラフの一番低いところにいて、それでもなかなかアイデアを見つけられなかったら、どんな気持がするだろう、などと考えてしまったのです。

 

たとえば、洗濯機の組立や、検査や梱包など、みんなある決まった仕事をするために働きにきているはずです。提案するために会社に来ているのじゃない。にもかかわらず、毎月の締切りに追い立てられ、息詰まるような思いで提案させられているのではないだろうか。確かに提案は良いことだろうがこんなふうにあおり立ててやらせるべきものだろうか。『ガンバロー!』というみんなのやる気よりも、そんなふうにあおられる側の息苦しさの方を、その当時の私は強く感じてしまったのです。
 提案をよく知っていればまた別の見方をしたでしょう。しかし、ズブの素人の私には正直なところ、そのように感じられてなりませんでした。

私のきれいごとのレポートに対して、委員長は、「松下電器がこれだけやっているのだからトヨタもやれないわけはない。現場も高校卒の人が多くなってきたから頭を使わせるようなくふうをしていかねばならないだろう」 といった意味のことを言われたのを覚えています。
 これから後はトヨタでも大量提案に拍車がかかり、グループ提案の奨励、課題テーマの設定などで、提案件数は急速に伸びていきました。 
 1971年   88,607
 1972年  168,458
 1973年  248,717
 1974年  398,091

 
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