仕事の事典  》 第13章 お客様  》 市場の変化に対応して新事業を起こす
 
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お客様‐1313 市場の変化に対応して
新事業を起こす
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 このページの掲載事例→                            ●131301 持ち下り商いから固定店舗へ  
 ●131302 伝導ベルトを国産化する
 ●131303 これから自動車の時代が来る
 ●131304 障子を開けてみよ、外はひろいぞ
 ●131305 10人のうち2〜3人が賛成するとき
新しい仕事を始める
 ●131306 有限の鉱業から無限の工業へ転換を図る
 ●131307 単身者増加に対応して
ワンルームマンションを建てる
 ●131308 茶袋にグラビア印刷とアルミラミネートを施す
 ●131309 牛の薬品製造から動物医薬全体に進出する
 ●131310 市場拡大期から買替需要期への
変化に対応する
 ●131311 店頭販売から通販に転進する
 ●131312 大名の物資輸送を肩代わりする
 
【131301】持ち下り商いから固定店舗へ  

■総合商社、伊藤忠商事と丸紅の創業者、伊藤忠兵衛(18421903)は、近江で繊維製品を商う5代目伊藤長兵衛の次男として生まれた。家督は兄が継ぎ、忠兵衛自身は独力で持ち下り商いを展開し、防長2州と九州北部に販路を伸ばした。忠兵衛の利益は兄をしのいでいたが、兄、6代目伊藤長兵衛は互いの利益を折半することを提案。忠兵衛はそれを受け入れた。

1871(明治4)年、忠兵衛は、防長2州と九州北部の得意先をすべて兄にゆずることと交換に、自身が大阪に出店することの了承を取り付けた。

■明治維新によって、300余州に分かれていたこの国は中央集権国家に生まれ変わった。東京・横浜に鉄道が開通。瀬戸内海には汽船が通うようになり、人も物資も自由に往来できるようになった。もはや持ち下り商いの時代ではない。商都・大阪に店を構えてこそ、大きく発展できる、」と忠兵衛は確信した。

1872(明治5)年、忠兵衛が大阪に出店した「紅忠」は、その後大きく発展し、現在の総合商社、伊藤忠商事と丸紅へとつながっていった。

取材先 伊藤忠兵衛記念館
取材 2019/08/23
掲載先 リーダーシップ2019/10
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki220.html 

 
初代忠兵衛江時代の店員が着ていたハッピ
 
【131302】 伝導ベルトを国産化する   


■動物の皮革は、日本では、武具・馬具・太鼓など、わずかな場面で使われるだけだったが、明治に入って軍隊が洋式化され、兵士が靴を履くようになったことで、大きな需要が生まれ、本格的な皮革産業が興った。

■ニッタグループの創業者、新田長次郎翁は、そのひとつ、藤田組製革所に入って、ドイツ人技師、ハイトケンペルから製革の技術を学び、やがて自ら製革所を起こした。

■当初は靴やカバンのための革づくりから始めたが、紡績機械と蒸気機関をつないで回転を伝える伝導ベルトに、ベルトの継ぎ目を糸で縫合するなど自分なりの工夫を加え、輸入品を凌駕する品質の高いベルトを作った。その後、機械化が進んで伝動ベルトの需要が増え、その需要に応えたことで、国内産業の近代化に大きな役割を果たした。

取材先 ニッタ
取材 2022/01/31
掲載先 リーダーシップ2022/03
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/
tanbouki248.html


革製伝動ベルト
 
 【131303】 これから自動車の時代が来る    


1910(明治43)年、豊田佐吉はアメリカに渡り、各地で織機を視察したが、自分の開発したものに比べるとどれも見劣りするように思われた。それよりも印象深かったのは、1908年にフォード社が開発していたT型フォードがニューヨークやボストンで縦横に走り回っていたことだった。「これから自動車の時代がくる」という確信を持ったといわれる。

■佐吉の長男の喜一郎は、1921(大正10)年に渡米したとき、繊維工業を中心とした軽工業の時代が、自動車を中心とした重工業の時代に移行しつつあると感じた。

■この体験に「自分は織機づくりに生涯をささげたが、お前は自動車を作れ」という父、佐吉の遺言も加わり、以後、喜一郎は国産自動車の製造という課題に挑戦し、トヨタ自動車をつくり上げた。 

参考文献 「世界の10人bX・豊田佐吉と喜一郎」(学研、2014P64
掲載先 リーダーシップ2022/02
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki247.html

   
1921年当時のアメリカ
(トヨタ産業技術記念館展示パネルより)
 
【131304】 障子を開けてみよ、外はひろいぞ    

■豊田佐吉翁が1918年に設立した豊田紡織(株)は、佐吉の作った織機で金巾や細綾などを織り、インド・南洋・中国などへ輸出していた。

■新たに上海に豊田紡織廠という会社を作ろうとしたとき、あえて上海に会社を作ることに反対した人々に、佐吉は「障子を開けてみよ、外は広いぞ」と言ったと言われる。

■日本から輸出するよりも、中国に会社を作り、中国人の手で織った方が、中国人を豊かにするだろう。自分たちの利益だけでなく、現地の人々の利益に心配りした言葉だった。

取材協力 トヨタ産業技術記念館
取材 2021/11/17
参考文献:楫西光速著「人物叢書・豊田佐吉」P104
掲載先 リーダーシップ2022/01
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki246.html

   

上海・豊田紡織廠
(トヨタ産業技術記念館編「温源知新」より)
 
【131305】 10人のうち2〜3人が賛成するとき
新しい仕事を始める
  
  

■仕事を始める時は10人のうち2〜3人が賛成するうちに始めなければならない。1人も賛成する者がいないのは早すぎるが、10人のうち5人が賛成するときには手遅れだ。7人も8人も賛成するようならもうやらないほうがいい…。倉敷紡績の社長、大原孫三郎翁は、倉敷絹織(現クラレ)を創業したときのことを、息子の大原総一郎にそう語ったという。

■孫三郎は人絹事業にはかねてから関心を持っていたが、第一次大戦後の世界不況の中で原料を海外に依存する紡績業が不安定さを増す中で、木材パルプを原料とする人絹なら原料を安定調達でき、将来性もあると進出を決意。1926年に倉敷絹織(現クラレ)を創業した。

■倉敷絹織はその後、京都帝国大学と連携して技術開発を進め、戦後は国産初の合成繊維ビニロンの工業化を成功させている。


取材先 公益財団法人有隣会語らい座大原本邸
参考文献 兼田麗子著「大原孫三郎・善意と戦略の経営者」
(中公文庫 2012P6265
掲載先 リーダーシップ 2021/10
探訪記 

http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki244.html

  
倉敷アイビースクエア
(創業当初の倉敷紡績所は
現在はホテルに改装されている)
 
【131306】 有限の鉱業から無限の工業へ転換を図る    

■宇部の石炭王と呼ばれた渡辺祐策翁は、10年に及ぶ炭鉱開発の末に、1897年、良質の石炭層に辿りつき、沖の山炭鉱を興した

■渡辺は質素で、石炭の利益のほとんどを、火力発電所建設、鉄道敷設、上水道整備、築港、病院や学校の建設など地域のインフラ整備に当てた。石炭を掘り尽くした後の時代のことに思いを巡らせ、次々と手を打った。

1914年には「宇部新川鉄工所」を設立。炭鉱で使用する機械をこの会社で修理、メンテナンスし、さらに自社製作できるようにした。1923年には「宇部セメント製造」を起こし、美祢の石灰山から石灰を採取し、石炭から出るボタや灰も併せて利用してセメントを作った。1933年には「宇部窒素工業」を設立。この会社で黒い石炭から作り出された最初の白い化学肥料、硫安を確認し、その直後に70歳で永眠した。

1942年、沖ノ山炭鉱、宇部鉄工所、宇部セメント製造、宇部窒素工業の4社は合併して宇部興産となった。1960年代になって世界各地で油田が開発され、エネルギーの中心は石炭から石油に移行。宇部炭鉱は1967年に閉山したが、渡辺が炭鉱閉山後を見据えて手を打っていたたことが奏功して、現在の宇部は化学工業のまちとして繁栄を続けている。 

取材先 宇部市ふるさとコンパニオンの会
取材  2018/12/14
掲載  リーダーシップ201/02
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki212.html

  


沖の山炭鉱 
 
【131307】 単身者の増加に対応して
ワンルームマンションを建てる
 


■スーパーホテルの山本梁介会長は大阪船場の繊維製品販売業を家業とする家に生まれ、労使紛争の末にその家業をたたんで、不動産賃貸業を始めた。

■あるとき、「ロサンゼルスで単身世帯が、ファミリー世帯が50%を割りそう」という英字新聞の記事を読み、日本でも単身世帯が増えていくに違いないと考えて、ワンルームマンションの事業を始めた。1969年のことである。

■ワンルームマンションの需要が増え、全国展開を図ろうとしたとき、遠隔地のマンションを管理するには、それぞれの地域に支店をつくらねばならなくなるが、代わりにビジネスホテルを作り、スタッフを常駐させれば新たに支店を作る必要がなくなる。こうして全国各地にスーパーホテルが誕生したという。

取材先 スーパーホテル
取材  2010/08/30
掲載  リーダーシップ2010/11
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki104.html

 
スーパーホテル(シティ大阪天然温泉)
 
 【131308】 茶袋にグラビア印刷と
アルミラミネートを施す
  

■葛g村(東京都品川区)はお茶を入れる袋をひとつひとつ手張りする家内工業から始まった。前社長、吉村正雄氏の時代に、袋に印刷を施し、ビニールコーティングしたりアルミ箔を貼るようになって茶葉の保存性が飛躍的に高まった。

■お茶は生産農家で蒸して、もみあげて、荒茶(あらちゃ)として問屋に納入される。問屋はそれをグレードに分け、ブレンドし、お茶屋さんに卸す。その問屋の段階で、茶葉をアルミ箔貼りの袋に封入すれば、そのまま品質が保持される。お茶屋さんはそれを店頭に並べるだけでよい。

■このことがお茶の流通を変えると直感した正雄氏は、1972年、周囲の反対を押し切って巨額の投資を断行。フィルムにグラビア印刷しアルミをラミネートした茶袋を製造する工場をお茶の産地、静岡に建てた。

■茶袋の生産力が飛躍的に高まり、それに合わせて各地に営業所や代理店を置いて、東京圏だけだった得意先を全国に拡大。高度成長の波に乗って会社は大きく成長し、同社はお茶の包材供給のトップ企業となった。

取材先 吉村
取材 2016/10/05
掲載 リーダーシップ2016/12
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki186.html 

 
デジタル印刷機「エスプリ」
 
 【131309】 牛の薬品製造から
動物医薬全体に進出する
  
  


■日本全薬工業は乳牛や肉牛のための薬を開発製造し牛の飼育農家に提供してきたが、1991年の牛肉と乳製品の輸入自由化によって、事業分野を牛を中心とする畜産農家に限定することのリスクが高まった。

■そこで、2001年、ターゲットをペット市場、鶏薬などを含む全動物薬に広げる「新創業」を宣言。「ゼノアック(ZENOAQ)」という企業ブランドを掲げ、その使命を「動物が人間にもたらす恵みをゆたかにすること」とした。

■動物の種類ごとの事業部制を採用。地域ごとに分かれていた従来の営業担当を、乳牛・肉牛・豚・鶏・ペットに分け、営業担当がそれぞれに畜産農家・獣医師・動物病院を回わって、顧客との商談・問題解決・情報収集・関係構築に当たることにした。

■顧客本位・社員重視・独自能力・社会貢献のレベルアップをめざす経営品質向上活動を展開。幹部による車座対話、社員の価値観共有のための「クレド」の作成、それに基づく活動展開と朝礼での発表、CSR委員会による社会貢献活動、プロフェッショナル資格認定、コアコンピタス製品として「アレルミューンHDM」(犬のアトピー性皮膚炎減感作療法薬)の開発…などに力を入れている。

取材先 日本全薬工業
取材 2017/05/08
掲載 リーダーシップ2017/07
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki193.html 

 


畜産農家を訪問する営業担当(上)
とZENOAQの動物薬
 
【131310】 市場拡大期から買替需要期への
変化に対応する
 

■市場が拡大していく時代の営業活動は徹底した実力主義で、押しが強く、声の大きな営業マンほど成績を上げた。しかし、商品がいき渡った後はお客さまとの関係をつなぎ、丁寧に買替需要を掘り起こしていくことの重要性が増した。 

■滋賀ダイハツ販売は、時代の変化に対応して売上至上主義からCS(顧客満足)向上に方向転換を図った。「経営品質向上委員会」を組織。「顧客本位」「社員重視」「独自能力」「社会との調和」の4つの理念に沿って社内体制を見直した。 

@「すべてのお客様に愛され、喜ばれ、信頼される企業になる…」そのことを通じて「社員、お客様、お取引店様、ダイハツグループ、地域の人々」の「5つの幸せ」をめざす…という経営理念を打ち出した。

A経営計画に沿って職場ごとに実行計画を策定。進捗状況を発表させ、PDCAを回した。

Bサービス工場の作業の無駄をなくし、お客様の待ち時間を短縮した。

Cお客様来店時のお出迎え、店内案内、サービス中の接待、サービス作業内容の報告、お見送り…を標準化。

D軽自動車は女性のお客様が多いため、女性客にとって快適な店舗づくりに努めた。

Eお客様情報・ライバル情報・ビジネスパートナー情報・本部情報・自分の意見を持ち寄って共有化。上下コミュニケーション、各種研修会、サービス技能コンテスト、各種社会貢献活動などによりサービス向上に努めた。 

取材先 滋賀ダイハツ販売
取材 2014/01/21
掲載 リーダーシップ2014/03
探訪記 
http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki154.html 

 
滋賀ダイハツ栗東店の内部
 
【131311】 店頭販売から通販に転進する  


■高本奏朗さんがデザインした靴を神戸の靴の展示会に出展した時、大きな評判を呼び注文が殺到したが、翌年の展示会ではそれと全く同じデザインの靴が、もっと安い価格で出展され、高本さんの靴は全く売れなくなった。

■翌年、「リゲッタ」と名付けた靴を、真似られないように商標登録し、専用箱を作り、そこにデザインの狙いと特徴を書き込んだ。この靴も大きな評判を呼んだが、その次の年の展示会でもやはりコピー商品が現れた。

■「ええ靴作ってるけど、出す展示会を間違うてるのと違う?」と言ってくれた人がいた。それがヒントとなり、東京ビッグサイトのギフトショーに「リゲッタ」を出展。すると、多くの通販事業者から引き合いがきた。

■店舗ではお客さんは靴しか見ないから、同じデザインなら安いほうが売れる。だが、現物を手に取ることのできない通販では高本さんが書いた文字や言葉による訴求力が大きな力を持ち、ここではコピーされる心配がなかった。

■「リゲッタ」はその後、通販雑誌のほかテレビショッピングやネット通販にも広がり、売上は飛躍的に拡大した。

取材先 リゲッタ
取材 2020/10/01
掲載 リーダーシップ2020/12
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki234.html

 
リゲッタ本社の展示会
 
 【131312】 大名の物資輸送を肩代わりする  

■伊丹で清酒業を立ち上げた鴻池新右衛門は1619(元和05)年に大坂に出て、衢壤(くじょう=九条)島から船で江戸に清酒を送り、やがて自らの清酒輸送の傍らで他人の物資の輸送も引き受けるようになった。

■江戸時代に入って貨幣経済の時代となって、諸国の大名たちは領国経営のために金銀を必要とするようになり、大坂に蔵屋敷を建て、そこを拠点に年貢米や領内の特産物を販売しようとしていた。

■新右衛門は当初、蔵屋敷から酒づくりのための米を買い入れ、それをきっかけに、諸大名の参勤交代のための物資輸送を引き受け、さらに蔵屋敷に納められた物品の海上輸送や販売を引き受けるようになったという。

■やがて、蔵米やその他の産物を担保として、大名に資金を貸しつけるようになり、代々「鴻池善右衛門」を名乗った新右衛門の子孫たちは大坂一の両替商となって、江戸時代後半には銀5万貫を保有する全国最大の豪商となった。 

参考文献 宮本又次著「鴻池善右衛門」
(吉川弘文館、1958

掲載先 リーダーシップ 2022/09
探訪記 http://www.souisha.com/tanbouki/tanbouki253.html

 
両替商の様子
(鴻池新田会所の解説パネルから)
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